2020.12.21
講師を務めた村田孝子シニア研究員(左)と、司会の渡辺研究員(右)
12月17日、ポーラ文化研究所にてオンラインセミナーが開催されました。
朝10時より配信機材を搬入。スタジオのように様変わりした化粧文化情報センターで、リハーサルを経て15時配信スタート!!
化粧文化情報センターにて準備
テーマは「日本の化粧文化」。
ポーラ文化研究所が長年研究テーマとしてきた日本の化粧文化について、古代から近代まで、通史でお届けする内容です。
はじめに、司会を担当した渡辺から「化粧の機能、目的」についてお話し、いよいよシニア研究員の村田孝子によるセミナーが開始。日本における化粧の起源から、白粉・お歯黒・紅といった独自の化粧文化を形成していった伝統化粧の時代、さらには明治の近代化から現代に続く化粧文化についてお話をしました。後半では、ポーラ文化研究所が収蔵するさまざまな化粧道具の解説も。
オンラインセミナーより
ご視聴いただいた方からは、「興味深いテーマだった」、「新しい知識・視座を得ることができた」、「講義と史料がバランスよく構成されていて、最後まで関心をもって視聴できた」「化粧文化に関する興味・関心が高まった」、「次回も参加したい!」などなど、うれしいお声が寄せられました。ご視聴本当にありがとうございました。
また、申し込みができなかった方々から、今回の動画を視聴したいというお声が入ってきております。みなさまにご覧いただけるよう、準備を進めておりますので、どうぞご期待ください。
これからもポーラ文化研究所では、みなさまよりいただいた貴重なご意見を参考に、さまざまな企画を検討してまいります。オンラインイベント等の情報はウェブサイトやSNSで発信予定です。
2021年のポーラ文化研究所の活動にもぜひご注目ください!
ポーラ文化研究所が収蔵する化粧道具について解説
◆当日はみなさまからご質問をいただきました。
時間内に回答できなかったご質問にお答えします。
Q:男性の美容家もかなり昔からいたことに驚きました。現代では珍しくありませんが、ごく最近になってからという印象があります。当時の美容家の方は時代的にもかなり当たりが強かったのではないでしょうか?
A:美容家の登場は明治時代で、その多くは男性でした。当時は、学歴や職業においても男性優位社会であり、科学的な分析をもとにした化粧品の評価や商品開発、美容本の出版といった啓蒙活動は男性美容家がリードしていたため、新たに女性美容家たちが登場し、活躍の場を拓(ひら)いていくには苦労した側面もあったのではないでしょうか。
女性美容家の草分けとしては遠藤波津子(1862-1933)が知られています。明治38年(1905)、東京・京橋(現・中央区銀座)に今でいうトータルビューティーサロン「理容館」を開店した遠藤は、欧米の化粧法の紹介や化粧品の輸入販売を手掛け、その後、大正14年(1925)に発足した東京婦人美容協会の初代会長に就任しました。
Q:男性用の化粧道具はありましたか?
A:公家・武家などの上流階級においては、男性も古くから眉化粧やお歯黒などの化粧を行っていました。また、男女ともに長い髪を結い上げていて、男性も髪の手入れには非常に気を遣っていました。ポーラ文化研究所では「男髪道具箱」(江戸時代末期)を所蔵しています。上段には鏡、下段には剃刀箱などが収められるようになっており、直線的な桧垣模様を背景に大胆に揚羽蝶を配した意匠は、女性用の道具にはない力強さがあります。上質なつくりから、武家や大店の主など、一定以上の地位や財力をもっていた人物のものだった可能性が高いと考えられます。
男髪道具箱(江戸時代末期)
しかし近代以降は、明治3年の太政官布告によって華族のお歯黒・剃り眉が禁止されたのを機に、男性が顔面に化粧料を塗布する化粧行為(メーク)はほとんど見られなくなり、欧米の礼儀作法に則ったよそおいが推奨されていきました。
また男性は、ケアには女性用を使用することが長く続きましたが、男性の皮膚生理に合わせた専用化粧品の発売も昭和30年後半頃から徐々に盛んになっていきました。近代以降の男性用の化粧道具として、ポーラ文化研究所では、詰め替え用のガラスボトルや櫛などをおさめたトラベルセットを所蔵しています。こうした化粧道具が流通していたことから、男性も身だしなみとして、旅先でのケアにも関心をもっていたことがわかります。男性の化粧意識と行動を示す品といえるでしょう。