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3-4

信子の美意識・よそおい

土浦信子を考察する上で、その長い人生をつらぬく「自己表現に対する鋭敏な視点」はたいへんユニークであり、独自な価値観といえよう。信子はよそおいや化粧に関して、どのようなこだわりをもっていたのだろうか、またどのような意識と行動を選択していたのだろうか。遺品調査から見えてきた生活の中の美意識に迫ってみたい。

渡米前(1900-1922年、幼少期-結婚直後)

信子の父であり、民本主義の提唱者として知られる政治学者・吉野作造は、信子が誕生した頃はまだ東京帝国大学の学生だった。大学院生時代に中国、同大学助教授時代に欧米に滞在。世界の最新事情を学んだ後に、同大教授として教鞭をとる。また、母たまのは当時としては珍しいオルガン、バイオリンといったモダンな趣味をもつ職業婦人(小学校教諭)であった(注1)。
このような家庭環境のなか、7人姉弟の長子である信子は、小学校卒業後に女子高等師範学校附属女学校(現お茶の水女子大学付属高等学校)(注2)に入学する。
小学校では紺のセーラー服、女学校では当初着物に袴であったが、大正8年(1919)の卒業の頃には「生活改善運動の影響で制服を着用していた」(注3)というのが信子の記憶である。
実際に写真を確認すると、本人の言葉どおり、女学校在学中は着物に袴、卒業後は着物と当時の典型的なスタイルである。髪型は不鮮明だが後ろにまとめているように見えること、大正時代初期という時代から束髪であると推定できる。渡米前の時期は服装も髪型もごく一般的な東京の女性のよそおいだった。

吉野家の姉妹たち 中央が信子(1910年代頃)

吉野家の姉妹たち
 中央が信子
(1910年代頃)

吉野家の姉妹たち 中央が信子(1910年代半ば頃)

吉野家の姉妹たち
 中央が信子
(1910年代半ば頃)

渡米中(1923-25年、23-25歳)

フランク・ロイド・ライトのもとで働くべく、土浦夫妻は大正12年(1923)に渡米する。道中の船上では「着物に名古屋帯に草履」(注4)姿だった信子だが、サンフランシスコに到着すると父の知人に「日本人が経営する洋裁店」を紹介され、人生で初めて洋服と洋風の下着、靴、帽子を購入する。

アメリカへ向かう船上の信子(1923年)

アメリカへ向かう船上の信子
(1923年)

アメリカ到着間もない頃の信子 船上で知り合った婦人と(1923年)

アメリカ到着間もない頃の信子
 船上で知り合った婦人と
(1923年)

「緑っぽいベージュの黒い縁取りの服だった。今でも持っていますよ。その服あまり好きじゃなかったけど、店の人に勧められて買ったの。帽子もかぶらされたけど、それが嫌でね。実は、その時初めて西洋風の下着をつけるのを教わったのよ。日本では誰も履いていなかったから。(注5)」
「その頃日本は洋服の流行も何もわからない時代ですからね。持っていって笑われてもいけないから着物で、という誰かのアドバイスがあったの。そのようにしてよかったと思いますね。アメリカにも日本人がやっている店がありました。あの頃移民がたくさん行っていたから、あまり心配しませんでした。(注6)」

パサディナのミラード邸工事現場の信子(1923年)

パサディナのミラード邸
工事
現場の信子(1923年)

「ボーイズもの」のパンツを履き、ピクニック中と見られる信子(1924年)

「ボーイズもの」のパンツを
履き、
ピクニック中と見られ
る信子(1924年)

タリアセン滞在中の信子(1924-1925年頃)

タリアセン滞在中の信子
(1924-1925年頃)

タリアセン滞在中、冬の装いの信子(1924-1925年頃)

タリアセン滞在中、
冬の装いの信子(1924-1925年頃)

信子が初めて触れたという1920年代の「西洋風の下着」は、当時のアメリカにおいてもまさに変化期にあった。第一次世界大戦後のスポーツの流行などからコルセットが小さくなり、1912年以来存在していたブラジャーが胸を守る下着として普及。シュミーズ、コルセット、パンタロン、ペチコートのなかでもシュミーズ以外が役目を終え、ショーツの原型となる下半身用の下着があらわれた時期であった(注7)。なお日本での西洋下着の普及には時間がかかり、洋装をしていても下着は腰巻という時代が長く続いたという(注8)
この頃、信子の生活は洋装が日常となっていた。ライトの事務所の同僚と買物に出かけるほか、シアーズやモンゴメリーワードの通信販売を利用して洋服を購入していた(注9)という。日本人女性としても小柄だったことから、サイズの小さめな「ボーイズもの」を好んでいたようだ(注10)。

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、 Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer / 撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、
Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer
撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、 Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer / 撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、
Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer
撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、 Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer / 撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる、通販カタログ、
Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer
撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる通販カタログ Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer / 撮影:上村明彦

信子が読んでいたと考えられる通販カタログ
Montgomery Ward &Co.,1925, Spring & Summer
撮影:上村明彦

残されていた写真に見る限り、渡米直後の信子のよそおいは実に多彩である。淡い色のロングコートの首元には大きなファーを、ストッキングと靴は濃いめの色で、つば広の帽子は淡い色目でというコーディネートを楽しむ。スタイルはワンピース、ショートパンツと多様であるが、この時代アメリカで人気を集めていたアール・デコを思わせるデザインのコート、ストラップ付の靴、キャンプ用ブーツ、キャプリーヌ帽やトーク帽など、よそおいのアクセントとなるアイテムが写真から確認できる。

また、渡米中の信子は洋装とともに断髪にもチャレンジしている。タリアセンにおけるライトや同僚たちとの共同生活は、仕事のかたわら熱心に建築を学ぶ忙しい日々で、「髪を結うのが大変だから」(注11)と亀城に切ってもらったという。当時の日本人女性は結った髪を油で固める髪型が一般的であった。断髪にしてからは、油でまとめていないためか、あごのラインから肩にかかるくらいの長さの髪は、ややボリュームを感じる自然なウェービースタイルのように見える。
1920年代当時のアメリカでは「ボブヘア」が流行の兆しを見せるものの、「髪を切る」という行為は勇気がいるものだったため「髪を結ってボブ風に見せる」髪型が人気を集めていた。大正末期の日本にも欧米の影響で「断髪」が登場するが、非常に先駆的な髪型だったため取り入れた人は「モダンガール」などごくわずかであり、この時代に女性が髪を短く切るということは非常に大きな決意がいるものだった。
しかし信子は、働きながら建築の勉強に専念するために「断髪」を選ぶ。社会通念や風評などにとらわれず、自身の価値観を大事に「自分のスタイル」を確立していった。

帰国後(1926-40年代、25歳-40歳代)

土浦夫妻が帰国した大正15年(1926)1月、大正末期から昭和初期にかけて東京の女性たちの間では、ウェーブさせた髪で耳を覆う「耳隠し」が人気を集めていた。またこの時代は、一部の女性が「職業婦人」として働き始めたことから制服として洋装化が始まるものの、日常着としてはまだ着物が一般的だった。今和次郎の調査によると昭和6年(1931)の銀座であっても「洋装は全体の1%程度」(注12)だったという。同時代に登場する断髪姿の「モダンガール」は、ごく一部の少数派だった。
しかし信子はアメリカ滞在中と変わらず、洋服に帽子、靴、断髪という姿で生活する。また当時のモガと信子の服装を写真で比較すると、Vネック、膝丈よりも長いスカートやワンピース、ベルトでウエストマークし、帽子を着用することなど共通点が見られる。信子自身は「モガだった」と語ってはいないが、アメリカで購入した洋服や小物でのよそおいは、まさにモガのよそおいであり東京の尖端的ファッションそのものであった。
髪の長さはアメリカ滞在中よりも短くなり、髪全体を油で固めている。現代のショートボブやベリーショートのような髪型にするほか前髪を作る時期もあり、長さやスタイルのアレンジを楽しんでいたようにも見える。
信子の尖端的なファッションは土浦亀城建築設計事務所所員から「初めて見た貴婦人」と述懐されたほか(注13)、女性雑誌にも取上げられる。
昭和7年(1932)、『婦人之友』では「私の洋服」(注14)というテーマで特集が組まれ、記事中、信子がコーディネートを披露している。女性への啓蒙を目的とした雑誌の中で、信子は時代のファッションリーダーとしての役割を期待されていたことがわかる。
信子はこの記事で、以下のように述べている。
「小柄な体格ですからなるべく簡単なデザインのものを選びます。」
「色の系統を一シーズンに二種類位に決めてあまりいろいろな色を使わないこと。」
「どこまでもシンプルということを基調にして、しかも時に思い切って変えてみる。」
上記三点を自身のルールとして挙げており、ここから自分らしいスタイルが確立されていることがわかる。

土浦家の人々と帰国後の夫妻(1920年代後半頃)

土浦家の人々と帰国後の夫妻(1920年代後半頃)

野島康三が撮影した信子(1930年代)

野島康三が撮影した信子(1930年代)

亀城設計の化粧台でメークする信子

亀城設計の化粧台でメークする信子

帽子をかぶり外出する信子(1930年代後半)

帽子をかぶり外出する信子(1930年代後半)

スキー場で日ヤケ止めを塗る信子

スキー場で日ヤケ止めを塗る信子

写真館で撮影したと考えられる信子(1930年代半ば頃)

写真館で撮影したと考えられる信子
(1930年代半ば頃)

写真館で撮影したと考えられる信子(1930年代半ば頃)

写真館で撮影したと考えられる
信子
(1930年代半ば頃)

メークについては基本的に薄化粧を好んでいたようで、『婦人之友』の座談会で「あんまりお化粧するのはいやだけれど、垢抜けしたような美しさになりたいものです。」(注15)と語るほか、田中厚子氏が確認した新聞記事(注16)では「土浦信子さんは日本ゐ一の女建築家である。いさぎよく断髪した顔に微塵も白粉気が見えぬ」と評されており、白粉の厚塗りはしていなかったと考えられる。
また当時の写真は白黒であるため判別は難しい部分はあるものの、一部の写真ではアーチ眉に淡い色の口紅を塗っているようにも見える。アーチ眉は当時の女性雑誌で紹介されていた欧米の映画女優(クララ・ボウ、グレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒら)の眉のかたちであることから、流行に沿ったメークを取り入れていたことがうかがえる。

『婦人之友』1932年1月号に掲載された信子のコーディネート例
『婦人之友』1932年1月号に掲載された信子のコーディネート例
『婦人之友』1932年1月号に掲載された信子のコーディネート例

『婦人之友』
1932年1月号に掲載された
信子のコーディネート例

『婦人之友』1932年1月号に掲載された信子のコーディネート例

『婦人之友』1932年1月号に掲載された信子のコーディネート例

「職業婦人」や「モガ」の登場が話題となった昭和初期の東京で、信子は「アメリカ帰り、洋装の女性建築家」として注目を集め、建築雑誌や女性雑誌、新聞で「吉野作造の長女」「土浦亀城夫人」としてだけではない「建築家・土浦信子」として取材を受けるようになる。日本の住環境の向上や、女性の家事労働負担減を目指していた姿が評価されたのだろう。先駆的な生き方を体現した信子は、「ありたい姿」を自分の言葉で自由に語った。

鹿鳴館から50年、盛んになつたダンスホール 出典:国立国会図書館近代デジタルコレクション『大東京寫眞帖』[出版社不明、1930]

鹿鳴館から50年、盛んになつたダンスホール
出典:国立国会図書館近代デジタルコレクション
『大東京寫眞帖』[出版社不明、1930]

モボ、モガの歓楽郷たるダンスホール 出典:国立国会図書館近代デジタルコレクション『大東京寫眞帖』[出版社不明、1930]

モボ、モガの歓楽郷たるダンスホール
出典:国立国会図書館近代デジタルコレクション
『大東京寫眞帖』[出版社不明、1930]

戦後-シニア期(1950-90年代、50歳代-90歳代)

戦時中、土浦夫妻は東京を離れ神奈川県・鵠沼に疎開する。その頃の信子はモンペ姿で過ごしていたという(注17)。確認できた写真は1940年代半ばから60年代のものが少なく、この時代の信子のよそおいについては確認が難しいが、1970年代以降の写真からシニア期を迎えた信子の姿を見ることができる。
戦後、信子にとって大きな転換点となったのが、油彩画との出会いである。1950年代から晩年の90年代半ばまで、90歳を過ぎても積極的に作品制作・発表を重ね、新たなフィールドで活動の幅と人脈を広げた。
一方でよそおいの変化としては柄物の服を好み始めたことと、メガネをかけ始めたこと、アクセサリーの着用が増えたことが挙げられる。

信子氏のメガネ。1960年代頃から着用した / 撮影:上村明彦

信子氏のメガネ。1960年代頃から着用した
撮影:上村明彦

信子が使用したバッグ。小ぶりのビーズタイプやクラッチタイプなどががある / 撮影:上村明彦

信子が使用したバッグ。小ぶりのビーズタイプや
クラッチタイプ
などががある 
撮影:上村明彦

信子着用の帽子 / 撮影:上村明彦

信子着用の帽子
撮影:上村明彦

遺品調査により、化粧品は海外の化粧品ブランドなどを使用していたことが推測される。メークの様子がわかるシニア期のカラー写真からは、グレーのアイブロウや青みがかったピンク色の口紅により若々しく活動的な印象を受ける。また装飾品に関しては、遺品にパールや翡翠などのネックレスがあり、写真にもその着用シーンが見られる。自筆のメモなどによると、オーダーメイドで注文していた可能性もみえてきた。

ベレー帽をかぶった信子(1980年代頃)

ベレー帽をかぶった信子(1980年代頃)

信子のネックレス / 撮影:上村明彦

信子のネックレス
撮影:上村明彦

信子使用のアイラッシュカーラー / 撮影:上村明彦

信子使用のアイラッシュカーラー
撮影:上村明彦

信子使用の化粧刷毛類 / 撮影:上村明彦

信子使用の化粧刷毛類
撮影:上村明彦

信子使用の帽子 / 撮影:上村明彦

信子使用の帽子
撮影:上村明彦

遺品調査や周囲の人々へのヒアリングから、信子は晩年にいたるまでよそおいにこだわりを見せていたことを確認できた。白金・都ホテル内の遠藤波津子の美容院で毎週髪の毛をセットし、若い頃よりもしっかりとメークをし、買い物は「銀座マリヨン」で洋服をオーダー、靴は「よしのや」、帽子は「ベルモード」で購入していたという(注18)。油彩画の継続的な活動により、社会との接点、交流が続いていること、たとえば個展の開催、グループ展への参加といった晴れの場が信子にはつねにあった。また1970年代以降になると、モダニズム建築の再評価に伴う土浦邸(第二)への注目が高まり、夫妻で取材に応じる機会や吉野作造記念館の開館という華やかなセレモニーもあり、社会的な期待の中で、それぞれの場にふさわしい役割を果たそうとする信子の自己表現の姿を見ることができる。

最後に

信子は晩年、元土浦亀城建築設計事務所所員の小川信子氏に「流行に敏感であるように。中心にいなくても、端っこにはいるように」と語ったという(注19)。
信子は渡米中から約70年、「洋装に断髪」というという一貫したスタイルをもち、それを時代や自身の年齢に合わせて楽しんだ。
建築家として日本の住環境向上や女性の家事労働の負担減を目指していた20代から30代、自身が納得できる抽象画制作に挑み続けていた50代以降、そして「流行に敏感」を重んじつつも「自分らしいよそおい」を志向した生涯からは、「心地よい生活を志向すること」「自身が美しいと思うものを探求すること」という共通の価値観がみえてくる。

釈について ×

注1...小川信子、田中厚子『ビッグ・リトル・ノブ』ドメス主版、2001年、p.17
注2...同書、p.28
注3...同書、p.30
注4...同書、p.50
注5...同書、p.46
注6...同書、p.50
注7...セシル・サンローラン著、深井晃子訳『女の下着の物語』文化出版局、1981年、p.143
注8...武田尚子『下着を変えた女』平凡社、1997年、p.160
注9...小川、田中、前掲書、p.59-61
注10...同書、p.61
注11...同書、p.89
注12...今和次郎著、泉麻人編『東京考現学図鑑』学研パブリッシング、2011年、p.46
注13...「時々、事務所においでになる、生まれて始めて見る貴婦人でした。お若く、気品に満ちた美人でいらっしゃる。帽子がよく似合い、黒い網をかぶっておられ、東京にも蜂が飛んでいるのかと、びっくりしてお辞儀をするのも忘れていました。」松村正恒「土浦亀城と私1 アメリカ仕込みの合理主義者」『SD』9607、第382号、1996年7月、p.84
注14...土浦信子「私の洋服」『婦人之友』1932年1月号、pp.22-23
注15...「洋服の正しい着方―外国婦人を中心にして―」『婦人之友』1932年5月号、p.68
注16...田中氏によると、土浦邸に残されていた新聞のクリッピングだが詳細不明とのこと。この話を受けて調査したが現時点で詳細不明。この新聞記事については、小川、田中、前掲書、p.123
注17...同書、p.180
注18...同書、p.190
注19...ポーラ文化研究所により小川信子氏へのヒアリング(2022年9月21日実施)による。
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