建築への思いや挫折感を断ち切るように、信子が熱意を注いだのは創作活動だった。戦前に没頭したのが写真である。フィルム式小型カメラを手に取れる人が徐々に増えた1930年代、信子が写真に興味をもつきっかけをつくり、またその師となったのは夫妻の親しい友人である写真家・野島康三(1889-1964)(注1)だった。
昭和8年(1933)頃、信子は野島の個展出品作のモデルを務めたことから写真に興味を抱き始める(注2)。野島は自身の作品制作だけではなく、若手芸術家の支援や写真雑誌『光画』の発行など幅広い活動(注3)で知られているが、女性だけの写真同好会「レディス・カメラ・クラブ(LCC)」の発足もその一つである(注4)。
レディス・カメラ・クラブの仲間たち。
信子は左から6番目
(1937年頃)
野島康三撮影の信子《女》(1933年)
信子撮影の写真(1937年頃)
昭和12年(1937)から活動を開始したLCCは、野島が顧問を、野島の妻・稲子が会長を務め、野島夫妻と親しい20名程度の女性たち(注5)で構成された。 信子はメンバーの一人として、都内近郊での撮影会やグループ展(注6)を開催するなど精力的に活動する。その作品は後年、写真史家・光田由里によって「生き生きとした好奇心がシャープな映像をつかむ、彼女の特徴」と評された(注7)。しかし、発足からわずか2年でLCCの活動は終了する。戦争の影響を受けた資材不足による自然解散だったが、信子は自身のライカを手放すことなく撮影活動を続けた。
亀城も仕事上写真撮影をする機会が多かったため、土浦邸内には暗室作業スペースが設けられていた。ここで信子は薬剤の調合をはじめ現像作業をすべて自身で手がける(注8)。夫妻が岸田日出刀(注9)らと出かけた中国旅行時の作品をまとめた写真集『熱河遺蹟』(昭和15年、相模書房)は亀城と岸田の共著とされているが、実際には信子の作品も収録されており、また信子自身は掲載写真の現像を担当したことに大きな自負を感じていた(注10)。
この中国旅行時の写真を『婦人之友』誌に寄稿するなど(注11)、信子は戦中も精力的に制作・発表をする。しかし昭和18年(1943)頃、本格的な物資不足により写真制作の中断を余儀なくされる。
戦後、転機が訪れたのは信子が48歳を迎える昭和23年(1948)頃だった。土浦亀城建築設計事務所所員である郡菊夫の夫人・恵子に勧められ、油彩画を描き始めたのだ。のちに「この頃、絵を一生の仕事にしようと思うようになったの」(注12)と述懐したように、信子はそれからの半生を油彩画に捧げることになる。
洋画家・弦田英太郎(1920-2014)(注13)のもとに3年間ほぼ毎日通い、石膏デッサンや静物画、風景画を手がけるなど描くことを純粋に楽しんでいた。弦田の都合により教室が閉会してからは、楽しむだけではなく「何とかして自分らしい絵を描きたい」と悩んだという(注14)。そのなかで「建築に似ている」抽象画に惹かれていった信子は(注15)、友人の紹介で昭和27年(1952)頃から抽象画家・末松正樹(1908-1997)(注16)に師事する。東京美術学校(現・東京藝術大学)で学びアカデミックな人物画を得意とした弦田と、専門教育を受けず前衛芸術運動に身を投じて抽象画を手掛ける末松とでは画風が違い、おそらく指導方針も異なるものだっただろう。一般向けの弦田教室に対し、末松のアトリエには若い画学生から年配のメンバーまで幅広い世代の勉強熱心な生徒が揃っていたという(注17)。まったく異なる教室の雰囲気に当初は気後れした信子だったが、末松の大胆な筆さばきと自由な色彩で構成される抽象画に感銘を受け、また「抽象画に何かを見出したい」という強い気持ちのもと50代半ば以降から90代後半にいたるまでの約40年間末松のもとで制作に没頭する。
土浦邸のギャラリーに飾られていた信子の作品
撮影:上村明彦
土浦邸のギャラリーに飾られていた信子の作品
撮影:上村明彦
信子愛用画材一式
撮影:上村明彦
信子は土浦邸2階の「モノオキ」と呼ばれた増築部分をアトリエとして活用し始める。イーゼル2台と大量の画材を揃えた信子は毎日この部屋に籠り、何時間もカンヴァスに向き合い続けた。週に1回の教室を何よりも楽しみに、「先生の指導も大切に、先輩の助言も聞き逃さぬようにして」(注18)「私なりの努力で新しい絵画の秘密を探し当てたい」(注19)と語り、作品制作に情熱を燃やす。暖色で構成された「あたたかい抽象」を好み、自身の身長よりも大きな100号サイズの作品を手掛けることもあった。
作品発表の場として末松門下のグループ展「松樹会」に毎年参加したほか、69歳にして初めての個展を銀座・あかね画廊で開催した。個展には予想以上に多くの来客があったといい「有益な批評や忠告を得ることが出来たのは、私として全く感激の極であった。」(注20)と手ごたえを語っている。生涯で6回の個展を開き、最後となる京橋・ギャラリーくぼたでの個展は93歳の時だった。
個展会場前での信子
(1970年代)
個展会場の信子(1970年代)
個展開催の案内はがき(1970-90年代)
撮影:上村明彦
信子の作品に対し、師である末松は「最初から一貫したスタイルを持っている」(注21)と語ったほか、「土浦さんは今年(1994年頃、信子94歳)になって伸びたね」(注22)と成長を評した。信子は末松への手紙に「絵をやっていなかったら平凡な一生だったでしょう」と伝えたという(注23)。また抽象画について「途中でやめてしまわなくてよかったと思っている。これからも希望を抱いて、描きつづけていきたいと願っている。」(※24)と語るように、40年以上絵筆を執ってきた情熱と努力が成長につながったのであろう。