夫・土浦亀城とともに渡米し、約3年間フランク・ロイド・ライトのもとで学んだ信子は、アトリエでの実務や通信教育を経て建築の基礎を身に着けた。帰国後はこの経験を活かし、「女性建築家」として活動を始める。その期間は約10年と短いものだったが、亀城の業績とは異なる領域で確かな足跡を残している。
大正15年(1926)の帰国後、信子は大倉土木株式会社(現・大成建設)に就職した亀城のサポートをする傍ら自主的に学習を続ける。まだ一級建築士の資格制度ができる前(注1)であり、製図の練習など実践的な腕を上げ、習熟していく必要性を感じていたのであろう。
信子名義の最初の実績は昭和4年(1929)(注2)に確認ができる。同年、東京朝日新聞社(現・株式会社朝日新聞社)によって東京・世田谷区成城学園前に建設する小住宅の設計案懸賞募集(コンペ)が開催された。信子はこのコンペに参加し、応募500案中より厳選した85案から、金賞6案に次ぐ銀賞10案の一つに選ばれた。この入選案のモデルハウス展示が「朝日住宅展覧会」として約1か月間実施された(注3)。「朝日七号住宅」と呼ばれた信子の案は批評家らから「朝日住宅十六案中最も実用的な設計で、無駄を省いて有効面積を少しでも多くしようと苦心したものの、設計者が婦人であるだけに各部に最新な注意が払われている。外観、内部ともに近代的建築の尖端を行くものといってよい。」(注4)「最新の欧州の傾向を多分に示した作で、プランも純洋風である。外観の仕上げがなれないせいか、図面程ではない。が若夫婦向きの新らしい(ママ)提案として注意をひく」(注5)「単純化のうちに変化を見せた、日本人向けのつゝましいコルビュジェ張りで、場内異数の形である。」(注6)と評された。
朝日住宅展覧会にて展示された信子の「朝日住宅七号型」
モデルハウス(1929年)
「朝日住宅七号型」、朝日新聞社
「新時代の
中小住宅」懸賞入選案(1929年)
生活改善同盟会による改善事項に基づいて、コンペの募集要項には「椅子式生活を中心とした家族本位の住宅」(注7)が掲げられた。その主旨は伝統的な日本家屋から洋風住宅化を促進するものであったが、まだ多くの人たちが着物で生活していた昭和初期、目新しい洋風住宅そのものではなく、「洋風の外観に畳を取り入れた和洋折衷案」が入選作の多くを占める(注8)。その中で信子の「朝日七号住宅」は、コンパクトな二階建てに、国際様式の流れを汲んだフラットルーフの四角い外観、四角い大きな窓という欧米の最新動向を貪欲に取り入れた意欲作だった。その点が「場内異数の形」として評価されたと考えられる(注9)。
この後、信子は幼馴染から頼まれて設計した昭和5年(1930)「谷井邸」(東京・世田谷)を手がけるが、これは亀城の設計として建築雑誌に紹介された。(注10)信子にインタビューを行った建築史家の田中厚子によると、同時期の「大脇邸」(東京・西東京市)についても、図面の筆跡や「朝日七号住宅」との類似などから信子の設計ではないかと推察できるという(注11)。
女性が自身の名前で仕事をすることが難しい時代だったが、信子は活発に仕事を続け次第に社会的な評価を受けていく。昭和5年(1930)『婦人之友』(注12)の「グループ住宅懸賞」では62案の応募作の中から上位8作品の一つとして入選。これはアパートの設計コンペであり、小住宅を中心に設計していた信子の新たな試みを見ることができる(注13)。
朝日新聞、1935年1月4日
「カレンダーを破るもの 「協同設計」のお手並」
(朝日新聞社に無断に転載することを禁じる。
承諾番号:23-2344)
1930年代半ばになると、建築家として実績を積んできた信子に社会からの期待は大きくなっていく。審査員や大きな建築計画の設計者として依頼がくるようになり、新聞社主催の懸賞設計の審査員を吉川清作、佐藤功一らと務めるほか(注14)、昭和10年(1935)には全30戸からなる等々力のジードルンク建設計画(注15)の16名の設計者にも選出された。この計画は同年のうちに中止となってしまったが、ブルーノ・タウトや谷口吉郎、前川國男、そして亀城など、当時を代表する建築家とともにその名があることは特筆すべきだろう。
「アメリカで学んだ女性建築家」として注目された信子は、新聞や『婦人之友』などの雑誌で「女性が建築家として働くこと」についての考えや「アメリカ帰りの女性」としての体験を語っている(注16)。『婦人之友』への複数回の寄稿や座談会への参加のほか、同誌の取材記事でも土浦邸(第二)の例を出し「台所改善」について具体的に解説している(注17)。また「婦人の立場から見た住宅問題」(注18)と題し、プライバシーを重要視しつつも暮らしの利便性を追求する間取りの提案、収納に関するさまざまな工夫、アイデアなどを展開している(注19)。メディアからの要請でこのような取り組みを続けた姿勢に、建築家として「女性にとって住みやすい住居の在り方」を模索していたことがうかがえる。またこの時期は土浦邸(第二)設計のほか、土浦亀城建築設計事務所による野々宮アパートメント(東京・九段、1936年竣工)や強羅ホテル(神奈川・箱根、1938年竣工)のインテリアに関わるなど、多様な領域に活動を充実させている(注20)。
土浦邸(第二)竣工当時の
様子は
「私共の家」として
『婦人之友』1935年3月号に
紹介された。
『婦人之友』1935年3月号
『婦人之友』1935年3月号
壁に取り付けられたアイロン台(1935年頃)
調理台に備え付けのまな板(1935年頃)
屋内にいながら郵便物を受け取れる
様子を実践する信子(1935年頃)
しかし昭和13年(1938)7月の新聞記事(注21)を最後に、建築家としての信子は姿を消す。成果や手ごたえを得て充実の仕事ぶりではあったが、その内面では大きな葛藤があった。「夫と同じ職場で、夫と同じ仕事を行うこと」に悩み、所内への配慮から退所、建築の世界から身を引く決意をする。
のちに信子は、女子が建築家として働くには「時代が早すぎた」と語ったという(注22)。しかし「日本の住環境をよりよくしたい」という建築家の使命感を抱き世に出した数々の入賞作や住宅改善の取り組みは、生活者としての細やかな目線を感じるものである。そしてその先駆的な取り組みと業績は現代において再評価の機運が高まっている(注23)。