女性が自由に学び、働き、活動することが難しかった時代から、土浦信子(1900-1998)は人生のさまざまな局面で自分らしく生きること、自己実現を追求し続けた。そしてその人生の節目には、常に大きな影響を与えた人物の存在があった。
吉野作造(1900年頃)
出典:国立国会図書館
「近代日本人の肖像」
土浦亀城(1920年代中頃)
信子の思想形成に影響を与えた最初の人物は政治学者の父・吉野作造(1878-1933)である。民本主義の提唱者として知られる作造は、中国で教育者として働いたのち3年間の欧米留学を経て、国際的な水準の知識と視野の広さを身に着ける。(注1)作造は女子教育の必要性を説いており(注2)、信子をはじめ吉野家の娘たち6名全員を女子高等師範学校附属高等女学校へと進学させている。
明治から大正における女学校卒業生の進路は、家庭に入る、数少ない選択肢のなかから進学先や就職口を決めるなど限定的であったが、作造は「語学、フランス語を学ぶように」と勧める(注3)。欧米留学の経験から、語学力の必要性を実感していたのだろう。父の言葉を受け、信子は女学校卒業後にアテネ・フランセに通い、渡米直前までフランス語の勉強を続ける。この語学学習の時間や経験が、のちに欧米の友人たちと親しく交流することの自信となった。
大正10年(1921)、信子は作造の別荘設計を担当した建築家・土浦亀城(1897-1996)と出会い、フランス文学の話題で意気投合、翌年結婚する。建築についての知識が全くなかった信子だが、亀城から建築史の本(注4)を借りたことで興味を抱き始める。大正12年(1922)に亀城がフランク・ロイド・ライト(1867-1959)から誘いを受けると、信子はアメリカで建築を一から学び、働くことを望み(注5)、亀城とライトはそれを承諾する。渡米という一大決心をした信子に対して吉野家の人々は一切反対せず、作造は座右の銘である「路行かざれば到らず、事為さざれば成らず」と書いた色紙を渡し、激励した。(注6)
渡米後、信子は懸命に努力を重ねる。事務所での実務を通して同僚から指導を受け、2年間の通信教育で建築の基礎を学んだ(注7)。のちに「よく勉強したものよ」(注8)と述懐したこの日々の背景には、父・作造の期待に応えたいという思いがあった(注9)。図面のトレースや色塗りから始めた信子は、やがて個人住宅のパースを描くまで成長を遂げる。「女性が働くこと」を肯定する夫や師、欧米の若手建築家とともに仕事をする中で、若き信子は「建築家」として働く自覚と決意を高めていった。
フランク・ロイド・ライト
タリアセン周辺の様子(1924-25年頃)
タリアセンでの記念撮影
ライト、ノイトラ、
エーリヒ・メンデルス
ゾーンらと
(1924-25年頃)
帰国後は亀城のサポートのほか友人の住宅設計、コンペ参加・入賞など仕事の成果に手ごたえを感じていた信子だが、大きな挫折に直面することになる。夫が代表を務める「土浦亀城建築設計事務所」で、専門教育を受けていない妻が共に働くことに対し、顕在化していない軋轢を感じたのだ(注10)。やがて信子は亀城と所員への配慮から退所を決断する。それは建築の仕事から身を引くことを意味していた。このつらい決意と喪失感から信子を再生させたのは「芸術」との出会いである。
写真家・野島康三(1889-1964)、抽象画家・末松正樹(1908-1997)という師のもと、信子は芸術という新たな生き方を見いだす。特に戦後40年以上師事した末松は、信子の後半生と芸術観に大きな影響を与えた。
野島康三が撮影した信子
(1930年代前半)
土浦邸(第二)のギャラリーに飾られていた
信子の油彩画
(1980年代頃)
撮影:上村明彦
亀城は、その生涯を通して信子の考えを尊重した。建築家として働くことを選んだ時も身を引く決意をした時も、また創作活動に打ち込み始めた時も決して否定することはなく、信子の思いに寄り添ったという。人生の選択肢を常に肯定し支え続けてくれる心強いパートナーの存在により、信子は自身の信じる道を歩むことができたのだ。