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2-4

同時代の建築家たち

亀城は大正8年(1919)、東京帝国大学建築学科へ入学(注1)する。同級生であり生涯の友となる岸田日出刀(注2)はドイツの建築雑誌を愛読し、2学年上の堀口捨巳、石本喜久治らは日本初の建築運動「分離派建築会」(注3)を結成するなど、建築家を志す若者たちは海外の動向を積極的に吸収しながら、建築の新たな可能性を模索していた。
学生時代の亀城にとって最大のキーパーソンとなったのは8歳年上の遠藤新(注4)だった。遠藤がチーフアシスタントを務める帝国ホテル新館工事現場を訪れた亀城は、フランク・ロイド・ライトと出会い、その仕事に衝撃を受ける。また亀城が吉野作造・信子親子と知り合うきっかけも遠藤によるものだった(注5)。
結婚間もない土浦夫妻は大正12年(1923)に渡米し、近代建築の最前線であるライトのスタジオに勤務。ライトの空間の取り方や階段を活かした設計案、安価な資材を投入した「住宅建築の工業化」への挑戦は若き日の亀城に影響を与え、のちの建築設計に活かされていく(注6)。
また、ライトのもとに集った若手建築家たちとの交流も刺激的なものだった(注7)。最新の欧米モダニズム建築の情報をもとに、日々ディスカッションを行うなど充実した時間を過ごしたという(注8)。

タリアセンの居間でくつろぐライトと事務所所員たち(1924年)

タリアセンの居間でくつろぐライトと
事務所所員たち(1924年)

日本へ帰国する土浦夫妻をサンタ・バーバラに見送りにきたノイトラ夫妻(1925年)

日本へ帰国する土浦夫妻をサンタ・バーバラに
見送りにきた
ノイトラ夫妻(1925年)

横浜のライジングサン石油社宅で語らう信子とフォイエルシュタイン(1920年代後半頃)

横浜のライジングサン石油社宅で語らう信子とフォイエルシュタイン
(1920年代後半頃)

ノイトラから帰国した土浦夫妻へ宛てた手紙

ノイトラから帰国した土浦夫妻へ
宛てた手紙

大正15年(1926)の帰国後に知り合ったチェコのベドジフ・フォイエルシュタイン(注9)もまた土浦夫妻にとって大きな存在となる。亀城は彼と「地下鉄ビルヂング」(東京・神田)、「斎藤報恩記念会館」(宮城・仙台)のコンペに共同設計で参加(注10)、信子が図面作成に協力した。彼との共同設計以降、夫妻はタリアセンで出会ったリチャード・ノイトラやヴェルナー・モーザーを通して知った「四角い箱型」「装飾性を排除した白い壁面」という、ヨーロッパにおけるモダニズムの潮流を取り入れた設計を具体化するようになり、それが二つの自邸設計に投影されている。

土浦邸「第一」、「第二」はいずれも文化人の交流の場であった。
「第一」では当時モボ・モガの間で流行していたダンスパーティーを開催し、建築家仲間の前川國男や谷口吉郎らと交流した。「第二」でも変わらず建築家や美術家、美術評論家ら文化人が訪れ、国内外の建築界の最新情報や日本の建築物改善の意見交換の場となった。
海外の動向を貪欲に吸収した自邸の設計とその暮らし方には、夫妻が使命とした「日本の住環境の改善」や「仲間との刺激に満ちた豊かな時間の共有」が企図されている。

土浦邸(第一)では建築家前川國男、五井孝夫らとダンスを楽しんだ(1930年代前半)

土浦邸(第一)では建築家前川國男、五井孝夫らとダンスを
楽しんだ(1930年代前半)

ノイトラ来日記念の祝賀会の様子(1930年)

ノイトラ来日記念の祝賀会の様子(1930年)

釈について ×

注1...当時の教授陣は塚本靖、内田祥三らで、講義の題材は京都御所など歴史的建築が中心だった。このような大学の授業に対し亀城は退屈に感じていたという。田中厚子『土浦亀城と白い家』鹿島出版会、2014年、p.72を参照。
注2...岸田日出刀(1899-1966)は大正14年(1925)に東京帝国大学工学部助教授に着任以降、昭和34年(1959)に退官するまで東京大学教授として後進を指導。安田講堂の設計を手掛けるほか、研究室には前川國男や丹下健三らが所属していた。同級生の亀城とは晩年まで親しい友人であり、共著に写真集『熱河遺蹟』相模書房、昭和15年(1940)がある。
注3...分離派建築会は、大正9年(1920)、東京帝国大学建築学科の同級生、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守によって結成された日本で初めての建築運動。過去の建築様式から離れ、建築の芸術性を主張した。
注4...遠藤新については、2-3「信子の生涯」注1を参照。
注5...遠藤は亀城にとって東京帝国大学建築学科の先輩であり、東京帝国大学基督教青年会(YMCA)の同じ寮で過ごしていた。寮の理事長を作造が務めており、亀城は遠藤に誘われて、吉野宅での勉強会に参加。遠藤が担当する予定だった吉野家の別荘設計を亀城が行うことになり、その建設予定地を信子が案内した。
注6...のちに亀城は安価で早く、効率的に住宅を建設できるように木造乾式構法での設計に挑戦する。田中厚子、前掲書、p.43などを参照。
注7...オーストリアのリチャード・ノイトラ、スイスのヴェルナー・モーザーらとはタリアセンで生活を共にし、週末にはピクニックやパーティーを行うなど、親しく交流した。ドイツのエーリヒ・メンデルゾーンがライトを訪ねた際には夫妻も同席したという。また昭和5年(1930)に国際建築協會で開催されたノイトラの来日講演会「新建築の意義と実践」では亀城が通訳を務めている。
注8...田中厚子、前掲書、p.104を参照。ライトの仕事よりも「ノイトラやモーザーとの会話やディスカッションが楽しい」とシンドラーにあてた手紙に書いていることに言及している。
注9...ベドジフ・フォイエルシュタイン(1892-1936)はチェコ出身の建築家。バレエ・スエドワや、友人の劇作家カレル・チャペックの舞台装置を手掛ける。アントニン・レーモンドの誘いで来日し、聖路加国際病院旧病棟や、駐日ソ連大使館を担当した。土浦夫妻とは、夫妻が帰国後に居住していた文化アパートメント(東京・御茶ノ水)で出会い、日常的に食事をともにするなど親しく親交したという。帰国後も、土浦夫妻と約5年間往復書簡を交わしている。田中、前掲書、pp.136-152のほか、ヘレナ・チャプコヴァー著、阿部賢一訳『ベドジフ・フォイエルシュタインと日本』成文社、2021年などを参照。
注10...東京地下鉄ビルヂング案は選外佳作第四席、報恩会館案は選外だったが、チェコの芸術雑誌『ムサイオン』1931年に掲載された。田中、前掲書、pp.139-140のほか、ヘレナ、前掲書、p.82などを参照。
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