土浦亀城(1897-1996)は茨城県水戸市生まれ。父・市松のいとこに横山大観がいる。大正8年(1919)に東京帝国大学建築学科に入学。東京帝国大学学生基督教青年会(YMCA)の学生寮で、建築学科の先輩にあたる遠藤新(注1)と出会う。遠藤の紹介でYMCA理事長である吉野作造の勉強会に参加、また大正10年(1921)帝国ホテルの工事現場を訪問し、フランク・ロイド・ライトと出会う。
土浦家家族写真
一高時代の亀城
(1910年代後半)
東京帝国大学在学中の亀城
(1920年頃)
出典:国立国会図書館近代デジタルコレクション
『大東京寫眞帖』[出版社不明、1930]
大学を卒業した大正11年(1922)に、吉野作造の長女である吉野信子と結婚。翌年ライトから誘いを受け、夫婦で渡米。ロサンゼルスのスタジオ、ウィスコンシン州スプリング・グリーンのスタジオ兼住居の「タリアセン」で勤務する。ライトが描いたスケッチをもとに図面やパースに起こすことが主な業務だった。大正14年(1925)、タリアセン火災を機にライトの事務所を退職。ドイツ系の設計事務所に勤務することになりシカゴに移動。翌年1月に帰国。
サンタモニカの海辺にて(1920年代前半)
帰国後の大正15年(1926)、大倉土木(現・大成建設)に入社。駐日ソ連大使館の現場を担当し(注2)、また大使館両脇に建てられたアパートメントと領事館(東京・麻布)を設計する。この時期はほかに新橋医院(東京・銀座)、トクダビル(東京・銀座)、個人住宅などを手掛ける。一方でクライアントや会社の意図にとらわれない、自由な発想を試す場として設計競技に積極的に参加し、神奈川県庁舎、髙島屋デパートメント(場所不明)などの設計案を作成。またチェコの建築家ベドジヒ・フォイエルシュタインと親しく交流し、地下鉄ビルヂング(東京・神田)、斎藤報恩会館(宮城・仙台)などを共同設計し、競技に応募。
土浦邸(第一)の外観(1931年頃)
土浦邸(第一)でダンスを楽しんだ仲間たち
(1931年頃)
昭和6年(1931)、自邸(第一)が五反田に竣工。前川國男、谷口吉郎ら友人たちが集い、時にはダンス・パーティーが催された。また中流知識層の住宅として、早く安く建設が可能な方法を模索しており、木造乾式構法を取り入れた。以後、昭和10年(1935)に完成した上大崎の自邸(第二)を含む7つの個人住宅を同構法で設計している。
昭和9年(1934)に大倉土木から独立し、土浦亀城建築設計事務所を京橋に設立。野々宮アパートメント(東京・九段下)や強羅ホテル(神奈川・箱根)などのほか、個人住宅を手掛ける。
昭和14年(1939)に中国東北部新京(現・長春)に事務所を開設するも、戦況の悪化から4年後に閉鎖。同年に京橋の事務所を上大崎の自宅に移し、信子とともに鵠沼に疎開。
トクダビル(1930年)
強羅ホテル(1938年)
戦後、昭和23年(1948)に事務所を八重洲に移転、パンアメリカン航空社宅(東京・初台)や上野広小路商業協同組合(東京・上野)などを設計。なかでも大きな仕事が昭和29年(1954)に竣工した国際観光会館(東京・八重洲)である。東京駅周辺で戦後最初に建設された大規模な建築であった。国際観光会館完成後、所員たちの独立に伴い事務所の規模を縮小。個人住宅やゴルフクラブ、病院を設計。昭和44年(1969)に事務所を閉鎖。その後も個人的に設計を請け負いながら、同世代の建築家仲間たちと趣味のゴルフを楽しむ生活を送った。
居間でくつろぐ晩年の亀城
(1980年代頃)
高度経済成長期の大規模な建築ラッシュと東京の復興を経て、昭和後期の1970年代になると日本の建築はポスト・モダンの時代を迎える。その一方でモダニズム建築を再評価する機運が高まり、土浦邸(第二)が再び注目を集めたため雑誌等のインタビューが増える。また晩年まで事務所のOB会「温土会」を催し、所員たちと旧交を温めた。平成8年(1996)、98歳で逝去。