土浦亀城(1930年代頃)
土浦信子(1920年代後半-1930年代)
土浦亀城(1897-1996)は茨城県水戸市に生まれる。親戚の影響で建築に興味を抱き、東京帝国大学建築学科へ進学。在学中にフランク・ロイド・ライトと出会い、その仕事に衝撃を受ける。信子(1900-1998)は政治学者・吉野作造の長女として誕生。亀城24歳、信子21歳の頃に作造の別荘設計(注1)がきっかけで出会い、フランス文学の話題で意気投合。亀城は信子に建築史の書籍(注2)を貸すなどして親睦を深め、翌年結婚。
吉野と家族 吉野作造記念館蔵
大正12年(1923)にライトからの誘いを受けた亀城は信子を伴い渡米(注3)。ライトのもとでの仕事や共同生活、若手建築家をはじめとするさまざまな人たちとの交流を通じ、アメリカの文化や暮らしを夫婦で体感。2年後、大陸横断旅行を経て帰国した。
タリアセンでライトらとともに働く土浦夫妻
(1924年)
タリアセン周辺の様子(1924年)
土浦夫妻、ミッション・サン・
フェルナンドにて
(1923-24年頃)
スケートを楽しむ土浦夫妻(1930年代)
帰国後、夫妻は洋式設備が整った御茶ノ水の文化アパートメント(注4)に居住し、数回の引越しを経て昭和6年(1931)に土浦邸(第一)、昭和10年(1935)に土浦邸(第二)新築。夫妻の代表作である土浦邸(第二)ではアメリカで学んだ便利で快適な生活を志向し、システムキッチン、ボイラー給湯、水洗トイレなど最先端設備を導入した。
土浦邸(第一)(1931年頃)
亀城は大倉土木への就職を経て昭和9年(1934)に独立、東京・京橋に個人事務所を設立。
一方の信子もまた住宅設計を主に手掛け(注5)、「女流建築家」(注6)として注目され亀城の独立後は事務所でインテリアを担当したが、夫や所員への配慮により建築業界から身を引く。建築への思いを断ち切るかのように、写真、次いで絵画と創作活動に力を注ぐ(注7)。
戦時中は鵠沼に疎開し、戦後自邸に帰宅。GHQによる接収を信子の嘆願で回避できたという(注8)。
亀城は事務所を東京・八重洲に移転させ、昭和29年(1954)竣工の「国際観光会館」(東京・八重洲)などを手がける。昭和44年(1969)、事務所閉鎖。
土浦夫妻(1950年代頃)
信子の個展会場にて
(1980年代)
軽井沢で避暑を楽しむ(1980年代)
夫妻は晩年まで仲睦まじく、共通の趣味であるゴルフに打ち込むほか建築家仲間や元所員たちと旧交を温めた。また戦前のモダニズム住宅として土浦邸(第二)が再評価され、雑誌のインタビューに二人で答えることもあった。亀城は常に信子を思いやり、応援していたことが周囲の人々からの証言からうかがえる。(注9)お互いを信頼し、尊重し合う関係性だった。