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保存・公開までの道のり

寄稿 安田幸一
(安田アトリエ主宰・東京工業大学名誉教授)

土浦邸を青山へ移転することに至った経緯

1935年に建てられた東京都指定文化財である土浦亀城邸を保存・再生するにあたり、まずは文化財としての長寿命化を第一に考えました。土浦邸は木造住宅であるため特に建物外周部の構造柱・梁の劣化が激しく、内装材についても、自然素材が多いためシロアリ被害や漏水による腐敗によって、その大半が破損、あるいは大きく湾曲しており、構造材・仕上げ材共に古い部材の全てを再利用することは非常に難しいと判断しました。全ての部材を解体して、利用できる部材と再使用に耐えられず新材に置き換える必要がある部材に分類する必要がありました。そこで、住宅全体を解体して、部材の健康状態を点検することとなりました。

移築前の土浦邸(2019年1月)

移築前の土浦邸(2019年1月)

解体作業中の土浦邸(2022年6月)

解体作業中の土浦邸(2022年6月)

解体作業中の土浦邸(2022年6月)

解体作業中の土浦邸(2022年6月)

土浦邸は文化財として、保存・再生した後に一般公開することを目標としていました。元々建っていた品川大崎の土地は、周辺環境も隣家も建設された当時とは全く異なりますが、閑静な住宅地であることは変わりません。土浦邸がこの住宅地に再建されて、多くの見学者が集まることに対して、周辺住民に多大なる迷惑がかかるという懸念が生じました。
このような状況の中で、POLA青山ビルディングの建て替え計画が進んでおりました。青山ビルは、建物全体にアートが配置された新しい考え方のオフィス環境の創出をめざすものです。ポーラ文化研究所も地上ロビーフロアの奥に入居し、ポーラ・オルビスグループが継続する文化事業を発信する場としても期待されることが決まっていました。
これら二つのプロジェクトを同時に設計していたので、二つのプロジェクトの将来性、土浦邸という稀に見る文化財を保存することを考えていると、青山ビルの南側空地に土浦邸が偶然にもぴったりと納まることが判明しました。全くの偶然ですが、土浦邸の元の土地は、前面道路から1.5m程度段差があったのですが、青山の土地でもその高低差もほぼ同じでした。アプローチの階段も容易に再現できることがわかりました。
土浦邸は、健康度の調査を主眼に解体され、一から組み立て直すことが前提となりましたので、元の土地に建てることも新しい土地に建てることも建て直す労力にほとんど差がなく、新青山ビルのアートのコンセプトにも沿っていました。また、土浦邸が一般公開されるにおいても交通の便が良い青山の土地の方が利便性も高いということを土浦邸の現在の個人所有者と話し合い、さらに文化財であるため東京都教育庁にご相談した上で、文化財指定された状態で土浦邸を青山へ移築することの許可がおり、青山への移築が決定しました。
移築後は、ピーオーリアルエステートが所有、公開運営を行う体制が整い、健全な維持管理も長期間期待できることとなりました。

現代社会へ伝える土浦邸の価値

21世紀の現在、「白い箱型のモダニズム住宅」は、決して珍しいものではありませんが、土浦邸が建てられた昭和初期においては、かなり斬新なものであったはずです。日本の戦前では瓦をのせた勾配屋根の在来型の木造住宅が主流でした。当時コンクリートは簡単に入手しにくい事情もあり、土浦亀城は日本の風土に合致した構法として、木造で白い箱を作ろうと考えたのです。しかし、陸屋根部分は木造の梁で支えながら、防水機能を重視し屋上のスラブはコンクリートを採用しています。
土浦邸の内部空間において、床のレベルが有機的に変化したスキップフロア形式を採用しています。これは土浦が修行時代に参加したフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルの内部空間に強く啓発されたものと言われていますが、当時住宅でのスキップフロアはとても珍しい形式でした。土浦邸が建った後、その多層的な空間づくりは多くの建築家へ影響を与えています。色使いに関しては、外部の白い箱に対して、内部も壁面や天井は白〜グレーが基調色でしたが、家具やカーテン、絨毯などには黄色や赤などの鮮やかな色が採用されていたことが、建物・文献調査によって判明しました。
今回の移築・再生計画にあたり、1935年の創建当時に立ち戻ってその時代へタイムスリップしたような復原手法を採用しています。増築前の創建当時の平面形に戻し、材料や色まで復原するにあって、建物調査や文献調査、壁仕上材の「こすり出し調査」によって、オリジナルの材料や色まで(一部を除いて)特定することができました。日本のモダニズムの萌芽期を代表する土浦邸を一般公開することによって、この「モダニズムが生まれたてのフレッシュな感覚」を現代の人たちへも伝えたいと願っています。

保存・公開までの道のり:現代社会へ伝える土浦邸の価値
保存・公開までの道のり:現代社会へ伝える土浦邸の価値

技術的・工程的に難易度の高い復原と移築

東京都指定有形文化財として、建築の価値を損なうことなく、健全な状態に修繕することが第一の目的です。しかし、今回の土浦邸の復原においては、神社・仏閣のように数百年を経てきた立派な柱梁を有する堅牢な建築ではなく、現代住宅に使用されているような細い柱・梁を主体とした従来型の木造建築であり、外壁の止水性能が悪いため、建物の外周部の柱梁は、漏水による腐敗とシロアリによる被害も甚大でした。極力オリジナル材料を保存するべく吟味して残しましたが、構造部材として再利用に適さないものは新材に置き換える必要がありました。
また、仕上げ材に関しても、長年の間に曲がり反りが生じたり、破損したりしており、再利用が難しいものが多々ありました。どの材料を保存修復し、どの部材を新規のもので造り替えるかを建築史の専門家にも相談しながら慎重に判断し、最終的には都の文化財保存の担当者と確認しました。これら材料を保存するか、あるいは新規材料に交換するかの判断が最も難しい点であったと思います。
また、今回の復原・移築工事では、土浦邸を1935年に建てられた創建時の姿に戻し、モダニズムの生まれた当時の新鮮な感覚を味わってみたいと思いました。90年近くも使われてきた住宅ですので、何度も改修されています。具体的には、外壁の修理(フレキシブルボードから木の羽目板張りへの変更)や内装の塗装の塗り替え時に、オリジナル部品が消失しているものが多々あり、元々はどのような材料で、どのような色彩であったかを土浦の残した写真や文献調査、「こすり出し」の手法によって、創建当時の色を突き止めました。しかし、完璧に突き止められたわけではありません。台所床材など想像の域を出ない箇所も何箇所かあります。それが第二の難しい点でありました。周辺の部材や同時代の建築の資料から類推することもありました。

竣工当時の再現にあたり発見されたこと

今回の解体調査によって、特に壁面内の軸組や小屋組等の構造部材が明らかになりました。木造ということは分かっていましたが、柱と梁の接合金物が多く使用され、またスパンの大きな開口部にはトラス状の大梁に吊り金物が使用されており、シンプルな箱形状を作るための構造的な工夫も見られました。
一方、工事途中に開口部(窓など)の取り合いによって、構造部材の変更や継ぎ足しが、現場段階で行われた痕跡も見つかり、当時の大工が、従来の構法とは全く異なる納まりで、大変苦労して作り上げたことを示しています。 また、解体調査によって、地階の水回りの基礎は、元々同じ場所に建っていた地主の蔵の基礎を再利用して、上屋は曳家によって隣の地主の土地に再建されたということが初めて明らかになりました。

解体調査(2022年6月)

解体調査(2022年6月)

解体調査(2022年6月)

解体調査(2022年6月)

土浦邸基礎駆体調査(2022年7月)

土浦邸基礎駆体調査(2022年7月)

内装や家具等の復原手法

建材、家具調度品をそのまま再使用するもの、修理によって再利用できるもの、すでに消滅しているが復原によって再制作の必要なものの3段階に分類しました。
歴史的史実が明確なものは良いとして、材料が現代では手に入らないもの、色やテクスチャーが解明できないものについては、確信を持った再現が困難になります。当時の社会状況や、雑誌に記載された建築材料のコマーシャルページ、同時代に建てられた建築の例などを参照しながら、より正確な復原をめざしました。
黄色とグレーの縞模様のカーテンの再現にあっては、オリジナルのカーテン布地も見つかっておらず、雑誌掲載記事にパースが掲載されて、言葉での記述されているのみでした。床壁天井の色を参考にしながら、数種類の糸でカーテン、絨毯のモックアップを作成して検証しています。色とテクスチャーについて、一部は想像の域を出ないため、確信を持てる資料をなるべく多く取り寄せ、より「確か」な色の再生をめざしました。

保存・公開までの道のり:内装や家具等の復原手法
保存・公開までの道のり:内装や家具等の復原手法

日本の将来を見据えた固有のモダニズム

昭和初期のモダニズム建築を再現することを前提として、どのようにして素晴らしい建築が生まれたのか、土浦亀城がフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルの現場を経験し、その後信子夫人と共に米国へ渡りライトの事務所で働きました。ライトは日本の文化や建築から多くを学んだと言われ、一方土浦はライトから豊かな空間づくりを学びました。欧米は、石を積み上げる文化で「積層」での建築文化と、日本の木造「軸組」構法とは大きく考え方が異なりました。土浦は、欧米の文化を取り入れると同時に日本の気候風土、建築技術に即した「日本人のための住宅」を独自に培ってきました。
当時のモダン文化を人々がどのように受け止めていたか、新しい西洋文化と明治大正の文化を継承し、日本の気候・風土に根ざした「日本の将来を見据えた固有のモダニズム」とは何かを土浦は追求していました。復原・移築された土浦邸を訪れる人々が、土浦の思想に想いを馳せてくださることを切に願います。

安田幸一

安田幸一
安田アトリエ主宰・東京工業大学名誉教授

1958年 神奈川県生まれ
1983年 東京工業大学大学院修士課程修了
1983年-2002年 日建設計勤務
1989年 イェール大学修士課程修了
1988年-1991年 バーナード・チュミ・アーキテクツ・ニューヨーク事務所勤務
2002年-2024年 東京工業大学教授(現在名誉教授)
2002年-現在 安田アトリエ主宰

2018年より、安田アトリエと東工大安田研究室にて、土浦邸の建物調査・研究及び復原・移築の設計・監理を行った。

歴史考証・協力:長沼徹(東京工業大学助教)

釈について ×

注1...磯崎新「土浦亀城・1930年前後」『都市住宅』鹿島出版会、1972年12月号
注2...ステンレス製の流し台が一般流通し始めるのは戦後、昭和25年(1953年)のことであり、それまではタイルやトタンが主流だった。小菅桂子『にっぽん台所文化史〈増補〉』雄山閣、1998年、p.213。
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