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2021.10.28
今回ご紹介するのは、平安時代からの伝統を受け継ぐ公家のスタイルです。公家のファッションとして有名なのは「十二単(じゅうにひとえ)」、お雛様の装いです。平安時代に生まれた宮廷に仕える女性の衣服を女房装束といい、重ねた着物の上に裳(も)を腰につけ唐衣(からぎぬ)を羽織るのが最もフォーマルな装いとされました。江戸時代になり、この「唐衣裳(からぎぬも)」をさして「十二単」と呼ぶようになりました。
庶民はもちろんのこと、武家であってもごく限られた場合にしか目にする機会がなかった、公家スタイルの装いとはどのようなものだったのでしょうか。公家のスタイルを踏襲した江戸城大奥のファッションで見てみましょう。
《千代田の大奥 おさざれ石》(部分) 楊洲周延 明治28年(1895)(国文学研究資料館撮影)
上の浮世絵は大奥の正月三日の様子を描いたものです。中央の女性は御台所でしょう。桶盥(おけだらい)に手を差し出し、「おさざれ石」という年初の行事を行っているところです。三が日は大奥でも唐衣裳を着用する慣わしがあり、御台所も紅の袴の上に菱文の単(ひとえ)、五衣(いつつぎぬ)、表着(うわぎ)を重ね着し、松が描かれた裳、薄紫色の唐衣を身につけています。上品な女性らしさを感じさせる装いですね。
高貴な女性の正式な髪型は「大垂髪(おすべらかし)」という、髷を結わないスタイルです。顔周りの髪にふっくらとボリュームを出して結び、毛先はまっすぐに垂らします。途中を何箇所か結びますが、その位置や素材、結び方にもルールが決められていました。
青や赤は、公家の中でも特に高い身分の女性に許された色という決まりがある一方、着物の色柄は季節ごとの年中行事を意識したものを身につけるのがたしなみ、といったしきたりもありました。ルールの中でもセンスをキラリと光らせるのが、高貴な女性ならではのおしゃれの見せ所だったのです。
《千代田の大奥 婚礼》(部分) 楊洲周延 明治29年(1896)(国文学研究資料館撮影)
※このコンテンツは2015 年から2018 年にポーラ文化研究所Web サイトにて連載していた「やさしい日本髪の歴史」を2019 年から2023 年まで一部改訂再掲載したものです。