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建物と設計者、土浦亀城・信子夫妻の魅力をご紹介
鎌倉から南北朝、室町、安土桃山と続く時代は、「戦国時代」とも呼ばれています。新たな権力者になった武家は質実剛健な気風を反映した文化を形成していきます。女性の身だしなみや装いは変化する社会に適合した様式へと次第に姿を変えていき、化粧は貴族階級から武家階級、さらに庶民にまで広がっていったのです。
2021.02.22
政治の中心が朝廷貴族から武士に移ると、文化の担い手も変わり、次第に武家の文化が芽生えていきます。女性のよそおいは、煌びやかな平安貴族女性の優美さに代わって、争乱期の武士社会に相応しい活動的なよそおいへと変わっていきます。衣服の簡略化が進むと髪型にも変化が現れて長く後ろに垂らした髪が束ねられるようになり、結髪の元祖となる結い上げられた髪型へと発展していきます。
2020.12.22
平安貴族の宮廷生活では、「香り」が日本独自の文化として花開き、重要なおしゃれとなっています。国風文化が花開いた平安時代。宮中の仄暗い部屋で積極的にアピールできたのが「香り」でした。独自の香りを身にまとうことは相手に印象づけ、さらに残り香などで存在をしめす優雅で有効な手段だったのでしょう。「香り」は重要なたしなみとなり、文化として華開き広がっていきます。
平安時代には、スキンケア(素肌ケア)はどのように行われていたのでしょうか? 現代のスキンケアの目的は、「肌を清潔にし、うるおいを与え、美しくするため」です。当時はまだ、確立した概念はありませんでしたが、洗顔や保湿につながるスキンケアの原型だと考えられるいくつかの手入れ(行為)がはじまっていたのです。
2020.10.29
平安時代は、衣を重ねた十二単や長い髪の垂髪など日本独自のファッションや髪型が生まれていく中で、化粧も日本独自の発達を見せていきます。白(白粉)、赤(紅)と黒(眉墨・お歯黒)が基本となり、3色の化粧が三位一体となって和の様式美がつくられていき、この化粧法が貴族社会で認知され、公家など上流階級の権威の象徴や高貴な身分の証となっていきます。
平安美人という言葉が示すように、この時代から日本独自の「美人観」が形成されていきます。何枚もの美しい衣を重ねた十二単、長く伸ばした黒髪に顔を白く塗って強調するメーク。「白い肌=美人」という概念は、私たち日本人の美しさのひとつとして育まれていくのです。
2020.09.28
平安時代にはいると大陸文化の影響は薄れていき、貴族中心に日本独自の文化が芽生えていきます。平安貴族の女性たちのよそおいは、色鮮やかな絹の衣装を何枚も重ねた十二単(じゅうにひとえ)に身をつつみ、「垂髪(すいはつ)」という黒髪を長くまっすぐに伸ばしたヘアスタイルとなり、優美な国風文化へと趣は様変わりをしていきます。
飛鳥時代を迎えて、日本の化粧文化は、自分を「美しく魅力的」にみせるための美意識をもった、伝統化粧の時代へと移り変わりました。当時のメーク法とは?
2020.07.28
飛鳥・奈良時代は化粧文化にとって大きな転換期でした。着物と帯のファッション、髪を結う日本髪、白粉に紅の化粧。こうした日本伝統のよそおい、その確立へ第1歩を踏み出したのが、今から1400年前、この時期だったのです。
古墳時代になると、よそおいは一層の発展を遂げていきました。古墳(こふん)時代は強大な権力をもった王が出現した時代で、その権力の反映である古墳に供えられた埴輪(はにわ)や、集められた装飾品、装身具から、その時代のよそおいの様相を知ることができます。
2020.05.26