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2020.07.28
飛鳥時代を迎えて、日本の化粧文化は、自分を「美しく魅力的」にみせるための美意識をもった、伝統化粧の時代へと移り変わりました。
現代のような"おしゃれ"を意識したメークが最も古く確認できる時代です。大陸では隋が中国を統一、日本は遣隋使(けんずいし)を派遣していました。大陸との交流では、仏教が伝来するとともに、様々な文化、品物が伝わっています。この時、新しい化粧法や紅、白粉、香といった化粧品も輸入され、日本における新しいメークの歴史が始まったのです。
《鳥毛立女屏風》(部分) 第四扇 (正倉院蔵)
唐風の化粧をした女性。額中央に花鈿(かでん)、口元に靨鈿(ようでん)と呼ばれる特徴的なポイントメークが描かれている。
当時のメーク法は、鉛で作られたおしろいを塗り、ポイントに唇に紅をさすというもので、当時の中国の影響があらわれています。特に鉛を酢で蒸してつくる白粉の製法が伝わり、この新しい「鉛白粉」は、それまでの貝殻や米の粉などの白粉よりも、格段にツキ、ノビがよく"肌を白く美しく見せる"ことができるようになったのです。歴史書『日本書紀』には、渡来僧の観成(かんじょう)が、女帝の持統天皇に鉛白粉を献上したところ、たいへん喜ばれたという記述があります。
当時、都に住む宮廷女性は顔に白粉を塗り、紅を使ったポイントメークをしていたと見られています。その様子は、正倉院に伝わる奈良時代中期、日本で描かれた「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」の女性像に描かれている唐風メークに見ることができます。口紅を赤くぬり、額中央には"花鈿"(かでん)、口元には"靨鈿"(ようでん)と呼ばれる、カラフルな色で花や星を描くポイントメークが施されているのが特徴的です。都に住む宮廷女性は先進国の最新ファッションやヘアスタイルを競って取り入れて、おしゃれをすることが、上流階級の文化人としてのステータスとなっていたのでしょう。こうした中国大陸様式の化粧を実践した鉛白粉の登場は、日本の化粧文化に白い肌への美意識を誕生させたのだと考えられます。
古代社会、身を護る呪術としての意味合いだった赤の化粧は白へと移り変わり、日本の化粧は白い肌への憧れ、おしゃれ意識の化粧とその道のりを歩み始めたのです。
次回は日本独自のよそおいの文化が育まれていく平安時代のよそおいと化粧についてお伝えします。お楽しみに!
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。