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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

004

かわる社会の仕組み 弥生時代~古墳時代 2 よそおいの発展と赤の化粧

2020.05.26

3世紀半ばから7世紀にわたる古墳時代になると、よそおいは一層の発展を遂げていきます。古墳(こふん)時代は強大な権力をもった王が出現した時代で、その権力の反映が古墳です。古墳に供えられた埴輪(はにわ)や集められた数々の装飾品や装身具から、その時代のよそおいの様相を知ることができます。

《女子 高崎市保渡田Ⅶ遺跡出土》 (かみつけの里博物館蔵)
顔に赤い顔料を施していると見られる埴輪。こうした人物や動物などの形象埴輪が用いられるようになるのは6世紀、古墳時代の後期のこと。《女子 高崎市保渡田Ⅶ遺跡出土》 (かみつけの里博物館蔵)
顔に赤い顔料を施していると見られる埴輪。こうした人物や動物などの形象埴輪が用いられるようになるのは6世紀、古墳時代の後期のこと。

古墳の発達とともに埴輪も表現が明快になり、その時代の服装をよく表しています。5世紀から7世紀の埴輪の服装は、上衣と下衣の形式で、上衣は男女同じかたちで、筒袖で腰までの丸首、前あきの身頃を上下2ヶ所で結び留めています。下衣は、男性はズボン風で膝下を紐で結んでおり、女性はスカート風に腰に巻いたものです。

髪は男女ともに長く伸ばしていて、男性は両耳のあたりで束ねた髪型で、冠や帽子を被っています。女性は頭の上にひとつに束ねて前後にからげた結髪で飾り櫛や鉢巻も見られます。埴輪の人物像には、身分に相応しい耳飾り、首飾り、指輪、足飾りなど数々の装身具がつけられています。また、素材は瑪瑙(めのう)や水晶のほか時代がすすむと金、銀が使われています、権力者は貴重な金や銀で華やかに身を飾って、身分の優位をアピールしたのではないでしょうか。

それでは、弥生時代から古墳時代の化粧はどのようだったのでしょう。
この頃の化粧の記録が、3世紀に中国で編纂された歴史書『三国志』の一部、通称『魏志倭人伝』に残されています。「倭」と呼ばれていたころの日本の地理や風俗が記され、日本人のよそおいが記録された最初のものと考えられています。

具体的には「男子は大小となく、皆黥面分身する」黥とは入墨のことで、男性は顔や身体に入墨をしていると記されています。
入墨ははじめ、魔除けなどの呪術的な意味合いであったものが、しだいに集団の印や飾りとなっていたのではないかと考えられます。

「朱丹を以ってその身体に塗る、中国の粉を用うるがごときなり」朱丹とは赤い顔料のことで、顔や身体に赤い色を塗っていると記されています。
弥生人や古墳時代の赤い化粧は、遺跡からの赤い色の原料となった花粉の発見や頬に赤い化粧のある埴輪の出土からも知ることができます。
ところで、なぜ赤だったのでしょうか。その理由はいろいろ考えられますが、赤は太陽や血を表し生命を連想させる色というのが有力な説です。今よりも死への恐怖や自然への畏怖の念が強かった時代、赤い色は人々を護る呪力を持った特別な色と考えられるからです。
弥生時代、古墳時代の人々にとっての化粧は現代のように「おしゃれ」という感覚ではなく、呪術的な意味から発した行為だったと考えられています。

次回は、化粧は呪術からおしゃれへ。仏教とともに大陸からやってきた化粧が、人々の意識を変えていった飛鳥・奈良時代のよそおいと化粧についてお伝えします。

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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