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2024.11.28
明治時代、西洋化が推し進められても、女性のほとんどは、依然として和服に日本髪というスタイルが一般的でした。とはいえ、明治も中頃になると、長く変化しなかった伝統的な髪型から「新しい髪型」が誕生することになります。その髪型とはどんなものだったのでしょうか。またその誕生の背景にあるものは。今回は「明治の新ヘアスタイル」がテーマです。
バッスル・スタイルの洋風ドレスを着た女性たち
《皇国美人鏡》明治時代(国文学研究資料館撮影)
【1.束髪の登場】
新ヘアスタイル誕生は、明治16年(1883)に完成した鹿鳴館での舞踏会がきっかけのひとつと言われています。日本政府の欧化政策のひとつである鹿鳴館外交を進めるため、上流階級の女性たちは洋装に挑戦することになります。招待者は内外の外交官や上流人士とその夫人たち。こうした社交の場で女性たちが身に着けた洋装は、腰の後ろをふくらませた「バッスル・スタイル」と呼ばれるドレスでした。このドレスに合わせて、日本髪を大胆にアレンジした束髪(夜会巻き)が考案されたのです。こうした新しい髪型にチャレンジしたのは一部の上流階級の女性たちでしたが、この洋装も髪型も「舞踏会のためのスタイル」であり、すぐに着物中心の生活様式まで変化したわけではなかったようです。
《鬘附束髪図会》楊洲周延 明治20年 (1887年)(国文学研究資料館撮影)
【2.束髪の奨励運動】
明治18年(1885)になると、広く一般女性に向けた「束髪スタイル」の推奨運動がおこります。医師の渡邊鼎(わたなべかなえ)と経済学者の石川暎作(いしかわえいさく)によって、日本髪を廃止し新しい髪型にしようという運動「大日本婦人束髪会」が設立されます。
「大日本婦人束髪会」では、経済的で衛生的、かつ便利という理由から、新しいヘアスタイルである「束髪」を推奨。その趣旨を伝えるために、明治18年に《大日本婦人束髪図解》という錦絵を刊行します。この錦絵では、会の主旨とともに4種類の束髪、「上げ巻」「下げ巻」「イギリス結び」「マガレイト」を図示して説明しています。ここで提案されたヘアスタイルは、いずれも日本髪のときにはなかった髪を編むスタイルがベースで、編んだ髪を垂らす、丸めて髷を作るなど、日本髪と比べて軽く、簡単に結えるように考えられていました。
中でも三つ編みをベースにリボンを飾った「マガレイト」や、すっきりとしたアップスタイルの「上げ巻」は和服にも似合い自分でも結えることもあって人気となり、東京をはじめ大都市に流行し、やがて全国に広まっていきました。
《大日本婦人束髪図解》松斎吟光 明治18年(1885年)(国文学研究資料館撮影)
【3.廂髪(ひさしがみ)の流行】
流行の常で日本髪への揺り戻しなどもあり、束髪と日本髪は互いに流行を繰り返しながら結われていましたが、明治35(1902)年頃、入れ毛を足して前髪を極端に張り出した束髪「廂髪(ひさしがみ)」と呼ばれる新しい髪型が登場します。女優の川上貞奴が結いはじめたともいわれ、明治時代末期から大正時代にかけて女学生の間で流行し、その後一般の女性たちにまで広まっていきました。この庇髪流行の時期に、日露戦争の二百三高地奪取(明治38年)が大きな話題となりました。人々は髷の高くなったところに二百三高地を連想して、廂髪を「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」と呼びました。
明治時代になって登場した束髪。当初は洋風ファッションのための髪型でしたが、女学生に、一般女性にと広く人気のある髪型となっていきます。束髪は、社会の変化をよく映す、近代化を象徴する髪型であったことがわかります。
左:あげ巻 中:マガレイト 右:二百三高地髷(廂髪)
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。