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2024.09.26
明治になり、欧米から新しい化粧品、化粧法が入ってきて、女性たちの美容意識に大きな変化が生まれたこと、またスキンケアの基本である、洗浄料「石鹸」が登場してきたことを、前回【1.新洗浄アイテム「石鹸」】でお話しました。今回は、当時登場したもうひとつの新アイテム「クリーム」のお話をしましょう。
【2.洋風化粧の必需品「クリーム」】
明治時代になって海外から導入され化粧シーンを大きく変えた化粧品にクリームがあります。クリームによってお手入れの方法が一変し、化粧の仕上がりはもちろん、利便性も格段に向上しました。
クリームは当初、一部の上流階級から使用が始まりましたが、次第に用途や購入者が広がります。明治末期から大正時代にかけて、スキンケアアイテムとしてはもちろんですが、化粧下地として使われるようになりました。
それまでは、白粉化粧の下地用には、長く鬢つけ油などが使われてきたのですが、「肌に栄養を与える」「なめらかな化粧膜で化粧のりがよくなる」などの理由で、クリームを化粧下地に使うようになったのです。また、欧米式の美顔マッサージに使われるなど、マルチパーパスな機能をもつことで脚光をあびるアイテムになっていったのです。
明治41年、長瀬富郎(花王前身長瀬商店の創業者)が、バニシングクリームを独自の製法で完成し、発売特許を受けます。明治42年平尾賛平商店の無脂肪性クリーム「クレームレート」の発売、明治44年の中山太陽堂の「クラブ美身クリーム」発売と続き、クリームは一部の上流階級が使うもの、から徐々に一般女性にも普及していきました。
理容館主、遠藤波津子も婦人雑誌で"クリームの下地使い"を推奨しています。「下地が美しくでき上がったら、次にお化粧にかかるのですが、その前にクリームを塗りこんでおきますと、でき上がりが非常に美しく、自然に近い素肌のようにみえます。」(『婦人世界』明治44年4月)、「コールドクリームは、主に化粧下に用いられます。西洋婦人は...化粧といふと、必ずコールドクリームを塗った上へ、粉白粉をポットにつけて軽くたたいておきます。」(『婦人世界』明治44年7月)。このようにクリームは、革新的な新商品として「文明の家庭必備化粧料」などとうたわれました。
クラブ美身クリーム 明治44年~昭和
次に化粧水の歴史についてご紹介しましょう。化粧水は、江戸時代にもあったスキンケア品で、新登場したクリームと一緒に使われました。そのほか、白粉の下地料や溶き水としても使われました。当時の化粧水の広告には、色を白くし、つやを出し、きめを細やかにして、にきび、そばかすなどの皮膚トラブルを防ぎ、白粉と共に用いるとよいとうたわれています。
明治11年、平尾賛平商店から「小町水」が発売され、その後各社から「キレー水」「二八水」「ローヤル水」などが発売されます。明治39年発売の乳白タイプ「乳白化粧水レート」は、濃厚な感触の化粧水登場となり、剤型、タイプ、感触が広がっていきます。
長く続いた眉剃りやお歯黒の習慣をやめ、西洋スタイルの化粧品、化粧法を取り入れていった明治時代の女性たち。その柔軟性や積極性を、多くの絵画資料や写真などに見ることができます。新しいアイテムである石鹸やクリーム、そしてメークアップ料を手にするとき、ワクワク、ドキドキしながら肌にのばしていく、新しい感触を確かめていく...そんな光景が見えてくるようです。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。