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2023.10.12
明治時代の一般的な女性たちは、白粉、紅の伝統的な化粧法を続けていました。一方、洋行帰りの女性や美容家が美容本や雑誌などに西洋の色つき白粉などの最新化粧を紹介すると、欧米の化粧・美容情報が世間に次々と広まりはじめます。化粧の分野にも近代化のトレンドがやってきたのです。
このような中で注目の美容法が登場しました。「美顔術」です。なんと明治時代にはじまっていたのですね。
一般女性向けにエステティックサロンがはじめて登場したのは、明治38年(1905)。遠藤波津子が京橋区竹川町(現在の銀座7丁目)に「理容館」を開業したのがはじまりといわれています。
それまで美肌とは、白粉で作る肌のことが中心でしたが、真の美しさとは美しい素肌を手に入れることという考えから、遠藤波津子はアメリカ人のドクター・キャンブルーに「西洋式の新・美容法」を学び提唱したのです。
当時エステは、英語の「ハイジェニック・フェイシャル・カルチャー」(Hygienic facial culture)が「美顔術」と訳され、新聞、雑誌に取り上げられる程の話題となっています。明治40年4月発行の雑誌『婦人世界 臨時増刊号 化粧かがみ』にも、「美顔術と申しますのは、米国式化粧の準備として顔を掃除しまするので、米国では到るところの床屋で行って居るさうですが、日本では昨年七月から此術の開業者が初めて現はれたのであります。それは京橋竹川町十二番地の理容館といふので、館主兼施術長は遠藤波津子という婦人であります。」とあり、この記事からも注目度の高さがうかがえます。
『欧米最新美容法』玉木広治編 東京美容院 明治41年(1908)
開業した理容館では、どのような施術をお客様に提供していたのでしょうか。以下に概要を紹介します。
◆美顔術の主な目的は顔面の汚れを除去し、血行を促して脂肪の分泌を適度にして、神経を爽快にするもので、主にクリームを使って肌の汚れをとるというものでした。その施術方法は、以下の手順であったといいます。
①まず熱く蒸したタオルで顔を蒸し、皮膚をやわらげたのち、クリームを顔一面に塗り、指先でよくよく皮膚内に擦り込む。
②次にカッピング・カップ、コンプレクション、バルブなどと称する器具で、先に擦り込んだクリームをまんべんなく吸い出す。
③そうすれば、氣孔(けあな)にたまった垢や脂肪がクリームとともに吸い出される。
◆また、理容館では、1回の施術時間が約40分、料金は50銭でした。 当時の白粉の値段が一個12銭~25銭でしたから、丁度、高級白粉を2個購入できる金額が1回分の美顔術代金でした。当時から高級なお手入れだったのです。そのようなこともあってか、お客さまの多くは財閥や政治家など、上流階級の令嬢や夫人たちであったそうです。
現在、エステ技術は格段と進歩しましたが、当時の美顔術のサービス内容を見てみると、さすがエステ元祖と称される内容だと感心させられます。※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。