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2023.07.27
明治時代以降、「近代化粧」へ移行していく中、眉剃り・お歯黒の廃止についで、最も変化したのが白粉です。今回は白粉化粧の進化についてお話しましょう。
白粉は、飛鳥・奈良時代に大陸より渡来し、江戸時代まで日本の「伝統化粧」を彩る必需品として愛用され続けてきました。
明治維新を迎え、文明開化で人々の暮らし向きも日々変化していきましたが、一般の女性たちには、着物に白粉、紅の化粧が変わらず続けられていました。白粉は従来からの鉛白粉が、つき、のり、のびが良かったため最も普及していました。
絵はがき(部分) 明治時代
しかし、鉛白粉は身体に有害だということを世間一般に認識させる事件が起こったのです。
明治20年(1887)4月26日、井上外務大臣邸で、明治天皇の臨席する天覧歌舞伎が催された際、義経役の中村福助の足が震えだして止まらなくなり、花道から抱きかかえられるように退場し会場が騒然となった事件です。原因は、専門家により鉛白粉による慢性鉛中毒と判断されて、社会問題へと発展していきました。
この出来事を契機に、化粧品メーカーでは明治21年(1888)頃から無鉛白粉の開発がスタートします。第一の白粉の進化は「無鉛白粉の開発」でした。
鉛中毒事件から17年後の明治37年、胡蝶園から良質の無鉛白粉「御園白粉(みそのおしろい)」が発売されます。鉛を含まない"つき・のり・のび"の良い白粉開発には大変な時間と労力がかかったのです。まさに最先端の研究技術から生まれた近代化粧品の先駆けといえる新製品でした。同時期に開発を進めていた各社も翌38年には「レート白粉」、「赤門白粉」、「クラブ白粉」など次々に無鉛白粉を発売しています。これらの近代的な白粉は徐々に普及していきますが、鉛白粉の人気も根強く明治以降も長く販売が続いていました。
煉製御料御園白粉 明治37年
そして、第二の白粉の進化は、「色つき白粉の登場」です。
明治初期から西欧の「肉色白粉」「肌色白粉」が輸入され、洋行帰りの婦人たちによって西洋の色つき白粉が雑誌に紹介されていましたが、輸入白粉を使えたのはほんの一部の女性だけでした。国産のものが登場したのは明治39年。「無鉛毒黄色白粉・かへで」「無鉛毒肉色おしろい・はな」(資生堂)が発売されたのです。白粉といえば白一色の時代に、色つき白粉の登場は実に画期的なことでした。
色つき白粉の先進性については、明治32年(1899)、川上音二郎一座の欧米興行に同行した川上貞奴が語っています。
「日本では白粉といへばまづ白いのばかりで、桃色の水白粉が無いでは無いが、その色も自然を離れています、然るに欧州の白粉といへば、一色ではありません。幾種類もあって、各々生地の色にうつるやうな色を選んでつけます。・・・・西洋人の化粧は、自分の肌の生地を綺麗に見せるといふが趣意ですから、その白粉も生地にうつるように製られているのです。・・・・この黄んだ白粉なぞは、最も日本婦人にあつらえむきです。その証拠にはわたしにはその色が一番よくうつりました。この黄味がかった白粉は、ちょっと見ると黄なやうですが、つけて乾くと自然の艶が出て美しく見え、日本人の黄色の肌に乗って、よし剝げても目に立ちません。この白粉はまだ日本には輸入して居ないやうですが、いづれ日本婦人に歓迎されるやうになりましやう。」
海外の化粧事情に接した貞奴は、肌をナチュラルに綺麗に見せるために、黄色がかった白粉が日本人の肌に合うことを確かめ、欧州の白粉の先進性、優秀性を感じ入ったようです。
肌を美しくみせる欧米式美容法は、明治40年代になると本や雑誌に紹介されています。しかし、実際の化粧では一般女性たちにはまだ遠い存在で、取り入れたのは上流階級など洋装する一部の女性たちに限られていたのが実情でした。
このように明治時代に、白粉は無鉛化、そして色付きと革新的な進化を遂げています。
赤(紅)、白(白粉)、黒(眉墨、お歯黒)の化粧しか知らなかった女性たちにとって、特に色白粉の登場は常識をくつがえすものでした。一般女性への普及には時間を要しましたが、欧米からはいってきた自然美を目指す近代美容は、白塗りメークではなく素肌を活かすメークこそが美しいと示唆して、日本女性たちの美意識も変革させていったのです。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。