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2020.05.26
縄文時代の終わりの頃に中国大陸や朝鮮半島から水田での米作りが伝わったと考えられていますが、本格的に稲作がはじまったのは紀元前4世紀頃、弥生時代のことです。水田での稲作は、一定の食糧確保につながり、ムラの人口は増え、安定した暮らしが営まれるようになったのです。
稲作という共同作業を行うムラは、やがて小さなクニへと発展していきました。中国の歴史書『漢書』地理志には、2000年くらい前の日本は「倭」と呼ばれ、100あまりの小さなクニに分かれていたとされています。
こうしてムラからクニへと移り替わる中、身分の差が生まれ、社会のしくみが大きく変化していった時代、人々はどんなよそおいをしていたのでしょうか。
弥生時代のよそおいについては、遺跡から発掘品や、中国の歴史書『三国志』の一部、2~3世紀ごろの倭人の社会や風俗を記した,通称『魏志倭人伝』の中から想像することができます。服装については、「男子は冠をかぶらず木綿の布で頭を巻き、衣は広い布を結び束ねるだけで縫うことはない。婦人は髪を結い、衣は一枚の布の中央に穴をあけて頭を通して着ている」とあります。
縄文時代から弥生時代への大きな進歩は、編むことから織ることで布を作るようになったことですが、女性の場合は織布の幅が30センチくらいであったことから、2枚の布を頭と腕の出る部分を開けて閉じ合わせたワンピース型ではなかったかと考えられます。
また、弥生人もネックレスや簪(かんざし)などの装身具を身に着けていました。縄文人と同じように、動物の牙や角、貝などを巧みに細工して、ネックレスや腕輪、髪飾りなどをつけていますが、当時の人々は動物の牙や骨のアクセサリーを身につけることで動物のもつ呪力や霊力を得ようとしていたのかもしれません。
さらに、大陸との交流で製造技術が伝えられた青銅や鉄、そしてガラス製品が新しい装身具として加わります。とくにガラスは他のものにはない美しさで弥生人を魅了したのではないでしょうか。ガラスの小玉や管玉でつくられた美しいネックレスも出土しています。
当初は呪術的な意味合いであった装身具は、王や巫女などの特別な身分の形成とともに、その身分を顕示するものともなっていたのです。
次回は洗練されるよそおい、埴輪に残るメークアップとは? 弥生時代~古墳時代のよそおいと化粧をお伝えします。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。