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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

027

伝統化粧の完成期
江戸時代14 武家・庶民に広がる香り文化

2022.12.08

あなたは日本の「粧(よそおい)い文化」といえば、何を思い浮かべますか?おそらく白粉や紅、お歯黒などの伝統化粧、そして垂髪や結髪などの日本髪ではないでしょうか。ですが、もうひとつ忘れてはならないものがあります。それは「香りの文化」です。
香りは仏教伝来とともに日本に入ってきました。平安時代には、貴族が室内や衣服に香りを焚きしめて楽しみ、種々の香料を調合した薫物(たきもの)を持ち寄って、その香りの優劣を競う「薫物合せ」という遊びも生まれました。平安時代の様子は、第11回「花開く香り文化」で既に紹介しましたね。(ページ下部「もっと知りたい人にはこちらもおすすめです」よりお読みいただけます。)
今回はその続き、鎌倉から江戸時代までの香り文化についてお話していきます。

《江戸名所百人美女 小石川牛天神》歌川豊国 安政4年(1857)(国文学研究資料館撮影) 《江戸名所百人美女 小石川牛天神》歌川豊国 安政4年(1857)(国文学研究資料館撮影)

鎌倉時代になると政治の実権が公家から武家へと移り、香り文化も武家の生活に組み込まれていきます。戦いを前に気持ちを落ち着かせるためだったのでしょうか、武士たちは、衣服や甲冑に香りを焚きしめ、戦いへと出陣するようになります。焚く香も貴族の薫物(練香)に代わって、武士たちが心ひかれたのは香木そのもの。権力をもった武将は最高の香木を求めて手をつくすコレクターでもありました。
その代表的人物が、南北朝時代の婆娑羅(ばさら)大名、佐々木道誉(どうよ)です。『太平記』には、「香風四方ニ散ジテ、人皆浮香(ふかう)世界ノ中ニ在(る)ガ如シ」と、道誉が大原野の勝持寺で催した花見の会で名香一斤(600グラム)を一気に焚きあげ、辺り一面に素晴らしい香りを漂わせた様子が記されています。現在、香木伽羅(きゃら)の価格は1グラムが二万円~七万円ほどで大変高価なもの。何千万円分もの香木を一気に焚いてしまったと考えるとなんとも豪快です。
こんなエピソードを持つ道誉は名香を百八十種類も所有しており、彼の死後、それらは室町幕府八代将軍足利義政に引き継がれています。武士たちは、やがてお互いの香木を自慢したり、聞き当てたりする遊びに興じるようになり、武家の香り文化が「香道」発展への礎となっていきました。

公家が育んだ香り文化に、武家文化の精神性を重んじ、香木の香りを鑑賞する遊びが融合して成立したのが「香道」です。香道は、室町時代中期の東山文化のもとで作法として成立、流派としては、御家流(おいえりゅう)と志野流(しのりゅう)がよく知られています。御家流は三條西実隆を祖とし、公家風の優雅さを重んじ、志野流は志野宗信を祖とし、武家の礼法を重んじます。

《菊紋入り十種香箱》江戸時代末期~明治時代《菊紋入り十種香箱》江戸時代末期~明治時代

香道が現代に伝えられる形式として確立したのは、江戸時代前半の元禄期。そのころ香道は最盛期を迎え、組香(※1)が盛んに行われるようになります。御家流、志野流という二大流派は多くの門下をもつようになり、公家や武家、やがて裕福な商人たちにと香道は広まっていきました。
香は町民の暮らしや遊郭でも使われるようになり、庶民にも香りを楽しむ文化が広まりました。香木の最高級品とされた「伽羅」は極上の意味を表わす言葉として使われ、丁子などで香りをつけた鬢付け油は「伽羅油」と名付けられて大ヒット。こうしたことからも、香が庶民にまで浸透していた様子がうかがえます。

このように江戸時代には、上流階級だけでなく一般庶民にまで香り文化は広がり、香りは日々の暮らしのなかで親しまれる文化となっていました。
明治時代以降、香道は他の伝統芸術と同様衰微した時期もありますが、令和の今、私たちが香水を身に纏い、ルームフレグランスやお香を焚いて芳香を楽しむ背景には、日本の香り文化が存在しているのです。日本に香が伝来したのは今から約1400年以上前のこと。長い歴史を経た日本独自の香り文化、見直し楽しんでいきたいですね。

(※1) 複数人で集会し、種々の香木を焚いて、その香りを聞き分けること。

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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