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2022.06.09
色の白きは七難かくすと言われた白肌と同様に、美人の条件として大切にされていたのが丈なす黒髪。その美意識は江戸時代になっても変わらず引き継がれ、髪を結い上げる、いわゆる日本髪という独自のヘアスタイルとなって花開きました。日本髪はどのようにして生まれ、江戸女性のヘアスタイルとして浸透していったのでしょうか?時代の流れに沿って日本髪の髪型トレンドをご紹介していきましょう。
まず、江戸時代以前はどのような髪型をしていたのでしょうか。平安時代以降、女性の髪型の中心は、後ろに長く垂らした垂髪(すいはつ)いわゆる下げ髪でしたが、安土・桃山時代になると、徐々にむすんだり、結い上げたりするようになっていきます。庶民の女性たちは便利で働きやすいようにと自然に髪を束ねるようになり、背で丸めて玉結びにする人も現れます。「天正(髷)」の誕生でした。
この唐輪髷が発展して、江戸時代になると基本の四つの髪型がつくられ、そこから多くのバリエーションが生まれていきます。
江戸初期、公家や武家階級の女性たちは依然として垂髪でしたが、女歌舞伎や遊女たちが兵庫髷や島田髷、勝山髷などを結い始めて一般庶民に広まっていきました。日本髪を構成する要素には「前髪、鬢(びん)、髱(たぼ)、髷(まげ)」がありますが、まず形ができたのが「髷(まげ)」でした。
女性たちの美しい髪型を作り上げていくために、兵庫髷、島田髷、勝山髷、そして笄髷(こうがいまげ)という「四つの髷」が基本となりました。以下にご紹介します。
「③兵庫髷」は、寛永の初めごろ唐輪髷が簡略化されてできた髷で、名称の由来は、摂津兵庫の遊女からとか、兵庫樽(片手桶)に似ているからなどといわれています。最初は遊女の髪型でしたが、次第に一般の女性にも広がりましたが、元禄ごろになると流行遅れとなり、わずかに中年婦人の間で結われる髪型となっています。
「④島田髷」は、美少年が結った若衆髷が変化したもので、東海道島田宿の遊女から始まったといわれます。代表的な髪型で、いろいろなバリエーションが生まれ、江戸時代全般を通じて女性に好まれました。現代でも「高島田」として花嫁さんの髪型に結われています。
「⑤勝山髷」は、承応から明暦(1652-57頃)。 下げ髪を輪にし、白元結(しろもとゆい)をかけた髷で道中したところ大流行したといわれています。
「⑥笄髷」は、室町時代頃から宮中の女官たちが下げ髪がわずらわしい時など笄(こうがい)に巻きつけて上にあげたところから、貞享~元禄(1684-1704頃)、民間に流行して一般にも行われるようになりました。先笄 (さっこう)は、島田髷と笄髷が相まってできたスタイルです。
③~⑤は、遊女や女歌舞伎などの下流階級から生まれ一般の人に流行していった髪型でしたが、反対に上流階級から流行していった髪型としては⑥の笄髷があげられます。
そして髷とともにこの時代のヘアトレンドをけん引したのが「髱(たぼ)」スタイルでした。延宝(1673-80頃)から、すこしずつ長くなった髱は元禄(1688-1703頃)になると、うしろへ突き出した形へと変化していったのですが、この頃から、主役が髷から髱へと交代したのです。流行した主なスタイルをご紹介します。
「⑦鷗髱(かもめたぼ)」は、その格好がかもめの尾羽に似ているところから、その名がつき、「⑧鶺鴒髱(せきれいたぼ)」は髪の形がちょんちょんと跳ねるように尻尾を動かすセキレイに似ていることから呼ばれたともいわれています。
享保の末頃になると、髱差し(たぼさし)という小道具が工夫され、着物の襟に髪油などがつかないように、それまで下に垂れ下がっていた髱が次第に尻上がりのような形に変化していき、明和、安永(1764-80頃)まで美しい髪をつくり続けました。鈴木春信が描く浮世絵美人の髪型にも美しい「鶺鴒髱(せきれいたぼ)」が描かれています。
江戸時代は、女性の結髪史上、最も輝かしい時代であり、その種類は数百種にも及んだといわれます。化粧と同様に髪型も、一目見れば身分、階級や未婚、既婚がわかったといわれます。次々トレンドが生まれた日本髪は、先端ファッションとして当時の女性のよそおい文化に大きな影響を与えていたのですね。
さて、次回は江戸中期~後期の日本髪の髪型&トレンドについて引き続きお伝えします。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。