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2021.08.31
町民文化が発達した江戸時代。化粧は武家の女性だけなく、庶民の女性も日常的に行うようになります。平安の世から続く日本独自の化粧法、黒(お歯黒・眉化粧)、白(白粉)と赤(紅)、3色のメークは完成期を迎えますが、なかでも最も特徴的な化粧法が「黒のメーク」。今回は、"お歯黒・眉化粧"についてお話しましょう。
江戸時代の武家の儀礼書には、女性は八歳から九歳頃に鉄漿付け(お歯黒)をし、十四から十六歳頃に剃り落とし本眉をつくるとあります。お歯黒をして「半元服」、眉を剃り落として作り眉にすることを「本元服」と言い、成人女性と認められる通過儀礼でした。次第にお歯黒をつける年齢は十三歳、十七歳と上がって、江戸中期以降は、結婚前後に歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすようになっています。現在の美意識とは全く違う、"お歯黒・眉化粧"のメークが江戸時代には慣習になって定着していたのです。
眉を剃る(抜く)という行為は、平安時代から公家の眉化粧として行われていました。江戸時代に公家や武家の上流階級の女性たちが行った眉化粧は、室町頃に整備されはじめ江戸時代に整えられた礼法に則って、年齢や身分によって作り眉の形が決められていました。やがて一般庶民も、武家の影響を受け通過儀礼として子供が生まれると眉を剃るようになったのです。もちろん、結婚する前は自分の顔かたちに合わせておしゃれに眉を描いていました。眉墨には麦の黒穂、油煙(ゆえん)などが使われたといいます。
お歯黒も中世以降、成人式あるいは婚礼といった通過儀礼と深く結びついて行われ、江戸中期以降は、黒は不変の色で他の色に染まらないという意味から、"貞女二夫にまみえず"の証として、既婚女性の象徴とされました。お歯黒については、はっきりした起源は分かっていませんが、『魏志倭人伝』や『古事記』に記述があることから、日本で最も古くから行われていた化粧と考えられます。初めのうちは宮廷貴族や公家、そして身分の高い武家の男性も女性も行っていましたが、長く続いた戦乱が終わると武士がお歯黒をすることがなくなり、男性では天皇・公家だけにその習慣が残りました。そして江戸時代には、女性の化粧として庶民にまで広まっていったのです。
《江戸名所百人美女 王子稲荷》(部分) 三代歌川豊国 安政4年(1857)(国文学研究資料館撮影)
お歯黒をして眉を剃っている既婚女性。お歯黒や眉化粧で年齢、職業、未婚・既婚といったプロフィールが判別できた。
では、"お歯黒"とは、どのようなものだったのでしょうか?
お歯黒は鉄漿(かね)・涅歯(でっし)などの字を充てることもあり、はぐろめ、はぐろみなどと呼ばれました。原料は、「五倍子粉(ふしのこ)*1)」と「お歯黒水(おはぐろみず)*2)」で、お歯黒水は主に自家製でした。お歯黒水を沸かして、五倍子粉に混ぜたものを歯につけました*3)。独特の臭い匂いを放つため、毎朝、家の人が起きる前につけていたようです。
*1)五倍子粉<主成分はタンニン酸>:ヌルデ〔ウルシ科〕の木にできる虫瘤(むしこぶ)を粉にしたもの
*2)お歯黒水<主成分は酢酸第一鉄>:酢、米のとぎ汁、酒、茶汁に錆びた針、釘など入れて作った液体、鉄漿水(かねみず)とも言う
*3) 上記2成分が化学反応によりタンニン酸第二鉄に変化、歯のエナメル質にしみ込んで黒く染まった
初めてお歯黒をつけるときは「鉄漿付(かねつけ)の式」を行いました。親類縁者の中で福徳な女性に鉄漿親(かねおや)になってもらい、その人からもらったお歯黒の道具一式で、初めてのお歯黒をつけたのです。また、初めてお歯黒をつけることを初鉄漿(はつかね)といい、七ヶ所から鉄漿水をもらうという慣わしもありました。このように、お歯黒は江戸時代の娘たちにとって、とても大切な意味をもったものだったのですね。
お歯黒の様子を当時の川柳句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』で見てみましょう。
●初鉄漿(はつかね)のかがみのおくに母の顔
●かねハたちまちゆになってくさい也
●まっ黒なくちゃくちゃをする恥ずかしさ
はじめの句は、母親が鏡の後ろから娘の変わる様子を覗き込んでいるさま。そして、鉄漿水は沸かすと臭かった。また、"くちゃくちゃ"は「うがい」のことで、お歯黒をつけた後、大変渋かったので、うがいをしたらまっ黒だったというのです。
このように、女性たちに浸透していた「黒のメーク」。一般女性のほか、京都、大坂では高位の遊女や芸者が、また江戸では遊女がお歯黒をしていました。お歯黒や眉化粧で年齢、職業、未婚・既婚といったプロフィールまでも判別することができたのです。眉を剃り落とし、お歯黒を施した顔は、何とも色っぽく見え、大人の女性の美しさとして周囲に映ったことでしょう。このように、一般女性にまで浸透した日本独特の「黒のメーク」でしたが、幕末から明治に来日した欧米人から奇異な風習と受け取られたことが影響して、明治以降徐々に姿を消していきます。
次回は、江戸時代のメーク&トレンドについて引き続きお伝えします。
庶民用お歯黒道具 江戸時代後期
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。