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2021.04.27
江戸時代の中期以降になると、商工業が発達し、江戸や大坂・京都の上方の商人が富を握り、経済力を背景に新たな文化を生み出していきます。町民階級の間でも、節句や花見などの年中行事が一般化し、歌舞伎などの娯楽、浮世草子などの民衆文芸、浮世絵など風俗・美人画が華やかに発展し、町人文化を開花させていきます。明るく活気にみちた町人文化では女性像や美意識はどう変わったのでしょうか。今回は、そのお話しをしましょう。
まず、ファッションシーンで一躍脚光を浴びたのが、遊女や歌舞伎役者たちです。美しさを競う姿は、女性たちにとって憧れの存在、そうです、今でいう芸能スターです。ファッション・リーダーであり、身近になった美の象徴でした。
ここで注目したいのは、男女のまなざしのさきにあるのは、「権威」ではなく「美しさ」であること、「美しさは女性の価値」と世間が見るようになったことです。庶民女性の意識も変わり、装いも化粧も見られることを前提に「美しく見せる」という志向を強めていったのです。慣習に縛られない庶民の女性たちが、美しく見せるプロの遊女や歌舞伎役者を手本に、自分たちなりに工夫した化粧や髪型を楽しみ、限られた範囲はあったものの、その中で自由なよそおいを生み出していった様子が目に浮かびます。
《亀戸初午祭(町人女性)》(部分) 歌川豊国 安政元年(1854)(国文学研究資料館撮影)
亀戸天満宮の正月詣でに来た江戸町民の女性。衣装と髪型・化粧でおしゃれを楽しんでいる様子が伝わってくる。
そして、化粧にも様々な流行が生まれました。当時の女性たちが一番化粧で気を使っていたのが白粉化粧です。それは色白が美人の条件であることを女性たちがよく知っていたからです。江戸時代後期、文化10年(1813)に出版され、ロングセラーとなった総合美容読本『都風俗化粧伝』には、「化粧の仕様、顔の作りようにて、よく美人となさしむべし。その中にも色の白きを第一とす。色のしろきは七難かくすと、諺にいえり。」とあります。庶民にとっての白粉化粧は、武家の女性のような「たしなみやルール」ではなく、「おしゃれ」の方法になったのです。『都風俗化粧伝』の化粧之部には、白粉化粧が次のように語られています。「白粉もあまり濃くぬれば、石仏のごときなんどと、人の譬喩(ひゆ)にあいて腹後指をさされたまうべからず。いかにも細やかに、濃き淡きは、我が顔に似合うように施し、耳の根、はえ際に、むらなくおとなしくつくりなすは、誠に自然の風流と見ゆるこそ、好もしきものなり」。つまり、庶民の女性には、白粉は濃くといった武家階級のような決まりはなく、その時々の流行に合わせ、自分の顔に似合うように白粉を仕上げていたことがわかります。
《亀戸初午祭(町人女性)》(部分) 歌川豊国 安政元年(1854)(国文学研究資料館撮影)
白粉化粧は地域でも異なり、江戸では、京・大坂の濃化粧に対して薄化粧が好まれ、粋な化粧を好む風潮が見られます。
薄化粧の例をさらに挙げてみると、江戸前期の元禄7年(1694)、井原西鶴が書いた『西鶴織留(さいかくおりどめ)』では、「素皃(すがお)でさえ白きに、御所白粉を寒(かん)の水にてときて、二百へんも摺付・・・・」と、もともと白い顔なのに白粉を何回も何回も塗ることを批判しています。この頃の白粉は、今私達が使っているものとは大分違っていて、水で溶いて刷毛で塗っていました。また、白粉を溶く水は、雑菌が少ない寒の水がよいとされていたようです。
そして、江戸時代の末期に書かれた『守貞漫稿』(喜田川守貞著、1837年に起稿)では、白粉化粧の様相を「(江戸中期の)文化頃には甚だ濃く、(約30年後の)天保には平日には素顔もいて薄化粧である」と書かれた部分があります。そして、天保以降からは、京や大坂の女性は濃化粧であっても、江戸では御殿女中など武家の女性や遊女だけが濃化粧で庶民は薄化粧が主流であると述べています。
このように江戸中期以降末期にかけて、庶民の化粧に対する美意識は、それまでの「濃化粧」から「薄化粧」へ移っていきます。こうした素肌の美しさを連想させる化粧のトレンドは、やがて素肌そのものを大切にするという、日本女性ならではの肌意識や美容法を形成していきます。それは、化粧が自分らしさ、自分そのものの美しさを表現するものになったことを意味しています。
町人文化のもとで化粧は自由に楽しむものへとなりました。次回は、江戸女性の素肌美づくり、スキンケア美容について引き続きお伝えします。
《当世薄化粧》 五渡亭国貞 文政頃(国文学研究資料館撮影)
江戸時代に流行した薄化粧。当時の浮世絵にも描かれている。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。