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化粧文化 COSMETIC CULTURE
日本の化粧文化史

012

原始化粧から伝統化粧の時代へ
鎌倉・南北朝・室町・安土桃山時代1 武家社会へ新たな化粧文化の現れ

2020.12.22

8世紀末から約400年間続いた平安時代ですが、しだいに武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。12世紀になると武士の平氏が政権を握り、次いで政治の実権を握った源氏が鎌倉に幕府を置き、時代は鎌倉時代へと推移します。政治の中心が朝廷貴族から武士に移ると、文化の担い手も貴族から武士へと変わり、次第に武家の文化が芽生えていきます。女性のよそおいも、平安貴族の優美で煌びやかなものから、争乱期の武士社会に相応しい活動的なものへと変わっていきます。

平安時代と鎌倉時代以降の女性のよそおいの変化でまずお伝えしたいのは服装の変化、「小袖」が人々の間に表衣(うわぎ)として定着していったことです。元々「小袖」とは、貴族の装束の「唐衣」(からぎぬ)や「袿」(うちぎ)といった「大袖」に対して袖の小さな下着の名称でした。平安時代末期には、「袿」を重ねた十二単衣などの装束は、平素の日常では動きやすい服装へと簡略化され、そうした流れのなかで、一般庶民の間では「小袖」が日常着となっています。鎌倉時代になると質実剛健を旨とする武家社会の価値観に合わせるようによそおいも実用的に考えられるようになり、小袖形式の服装が広がっていきます。現在の和服の原型となる小袖は、室町時代から安土桃山時代にかけて、表着として洗練された形式に確立されていったものです。

《職人尽歌合 巻中・三十三》 明暦3年(1657)(国立国会図書館蔵)
「かた紅」をとく女性。動きやすい小袖を着て作業している。室町時代の職人を題材とした職人尽絵。《職人尽歌合 巻中・三十三》 明暦3年(1657)(国立国会図書館蔵)
「かた紅」をとく女性。動きやすい小袖を着て作業している。室町時代の職人を題材とした職人尽絵。

そして、髪型にも変化が現れています。衣服の簡略化が進むと、長く後ろに垂らした髪が束ねられるようになっていきます。貴族社会では、丈なす黒髪を美女の第一条件として、高貴な女性たちは、毛先が床につく程長い垂髪を後方へ垂れ下げて美しさを誇っていました。それが、武家社会になると女性の髪は少しずつ短くなり、生活環境に合った活動的なスタイルへと変わっていったのです。垂髪の様式にバリエーションができて、「単に後ろに垂らす」といったシンプルなものから、「中央で分けた髪を顔の両側に垂らして元結(もとゆい)で結ぶ"二筋垂髪"」や「垂髪の先を折り返して、元結で結んだ"玉結び"」など、工夫された髪型が登場してきます。鎌倉時代では、まだ貴族や武家の上流階級の女性の間では長い黒髪が美しさとステータスであり続けていたのですが、一方で一般の女性たちの髪は、活動しやすい、働きやすいように短くなっていきました。そして室町時代末期から安土桃山時代頃に徐々に髪はまとめられるようになり、唐輪髷(からわまげ)など江戸時代の結髪の元祖となる結い上げられた髪型へと発展していきました。

国風文化の形成された平安時代から進んだ、鎌倉時代から南北朝、室町、安土桃山時代は武士による権力争いが続き、社会も人々の生活も不安定でしたが、女性のよそおい(化粧・髪型、ファッション)は、新たに芽吹いた武士社会の動向と結びついて文化の主役の入れ替わりとともに古い慣習から新たな日本の様式の創造へと動きだしていったのです。
次回は鎌倉時代から江戸時代までの化粧についてお伝えします。

下げ髪 安土桃山時代(左) 玉結び 江戸時代初期(右)
室町時代に結っていたといわれる「丸結び」は、この髪型の原型。下げ髪 安土桃山時代(左) 玉結び 江戸時代初期(右)
室町時代に結っていたといわれる「丸結び」は、この髪型の原型。

※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。

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