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2020.10.29
衣を重ねた十二単や長い髪の垂髪など日本独自のファッションや髪形が生まれていく中で、化粧も日本独自の発達を見せていきます。
平安時代の化粧は、花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)のポイントメークや太く弓なりの眉つくりなどの華やかな唐風のメーク法は見られなくなり、平安貴族たちの感性にマッチしたしとやかな情緒の宮廷メークへと変わっていったのです。宮廷女性は、鉛からつくる鉛白(ハフニと呼ばれた)や水銀を原料とする軽粉(ハラヤと呼ばれた)の白粉で顔を白く塗り、紅花の紅を小さく口元にさし、頬にも紅を施して彩りをそえていました。そして、まさに日本独自の伝統化粧法と言える「眉化粧」と「お歯黒」が、平安貴族の間で一般化していったのです。
まず、「眉化粧」。飛鳥・奈良時代の眉を形づくるメークから、日本独自の眉メークへと変わりました。生来の眉をすべて抜いて白粉を塗った上に、眉墨で自分の眉の少し上くらいの位置に別の眉を描く眉化粧をするようになったのです。『源氏物語』の中にも、「歯黒めも、まだしかりけるを、ひきつくろはせ給へれば、眉のけざやかになりたるも、美しう清らなり」(お歯黒はまだだが、眉を抜いて眉墨を引いたので、ぱっちりとなったのが美しい)と記述されています。宮廷の女性は、貴族の化粧としてこのような眉化粧を行うようになったのです。何故、全く別のところに眉を描く化粧が生まれたのか、はっきりとしたことは分かっていませんが、一説には眉は感情が強く表れるところ。額に描いた眉なら、感情につれて動くようなことがないので穏やかで高貴な雰囲気になるという美意識があったようです。
《三十六歌仙扁額 三条院女蔵人左近》(部分) 狩野探幽 (静岡浅間神社蔵)
額に眉を美しく描いた高貴な身分の女性。
次に「お歯黒」。歯が黒いなんて、現在ではとても考えられないことですが、3世紀頃の中国の歴史書の倭の国(日本)について記述した『魏志倭人伝』に「黒歯国有り・・・・」の記載があることなどから、日本ではイレズミと並んでお歯黒は最も古くからあった化粧法だと考えられています。お歯黒は、涅歯(でっし)、鉄漿(かね)などと書かれ、五倍子粉(ふしのこ)とお歯黒水を用いて歯を黒く染めます。平安時代には、前述の『源氏物語』に「歯黒めも、まだしかりけるを」とあるように、お歯黒は眉化粧とともに、宮廷など上流階級では、女性が十歳前後になると成人のしるしとなる通過儀礼として慣習化していきます。
平安時代末期になると公家の男性も「白粉・紅化粧」に「眉化粧」「お歯黒」をするようになり、化粧は高い身分や階級を示す象徴としての意味を持つようにもなっていったのです。
日本独自の化粧文化が発展していった平安時代。お化粧は白(白粉)、赤(紅)と黒(眉墨・お歯黒)が基本、3色の化粧が三位一体となって和の様式美がつくられていきます。白赤黒の化粧は、江戸時代まで続き、庶民にまで浸透して完成期を迎えるのです。この日本独自の化粧法が貴族社会で新たな国風文化の美しさとして認知され、公家など上流階級の権威の象徴や高貴な身分の証となっていったのが平安時代だったのです。
次回は日本独自の文化が育まれていく平安時代のスキンケアについて、引き続きお伝えします。
《三十六歌仙扁額 中納言敦忠》(部分) 狩野探幽 (静岡浅間神社蔵)
眉化粧は権威の象徴、身分や階級を示すものと考えられ、公家など男性も化粧をするようになった。
※このコンテンツは2014年から2019年にポーラ文化研究所Webサイトにて連載していた「新・日本のやさしい化粧文化史」を一部改訂再掲載したものです。